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 『変化』は、順調に進んでいる。

 指先はすでに欠け落ち、黒く禍々しい壊疽組織は全身を覆っている。だが、それは表面上のことだ。変質したその肉の下には、傷一つ無い新しいからだが育ちつつある。

 だが、栄養の摂取すら点滴に頼るほどに衰弱しているのを考慮すれば、決して『経過』が順調とは言いがたいだろう。

 幾本もの管を刺され検査機のコードに縛り付けられた黒い獣は、力ない寝息を立てている。

 水面から上体を揚げてその姿を覗き込んだハチは、傍らで忙しくノートパソコンを繰るドクターに声をかけた。

「あれだろ、腐った皮膚さえはがれれば、つるんと良くなるんだろ?」

「なんとも言えないわね。何しろ前例が無いんですもの。」

 ぷふんと小さなくしゃみが響き、いくつかの皮膚片がパラリと落ちる。

「それに、不安はそれだけじゃないわ。」

 ドクターはハチの鼻先にパソコンを突きつけた。

「CTの映像を繋ぎ合わせた画像よ。何に見える?」

 簡単な画像では目鼻立ちこそ刻まれていないが、二本の足で直立し、二本の腕を備えた姿は……

「人間じゃねえか! 良かったなあ。晴れて嫁さんと一緒になれるって事だ!」

「そんなに楽観視できないわよ。『D』は根幹を成す遺伝子の構築要素を分解し、そのパーツをもとにランダムな組成要素と……」

「ちょちょちょ! 姐さん、ストップ。もっと解りやすく頼むよ。」

「そうね、いろんな色のブロックで人形を作ったとしましょう。これを一度ばらばらにして、同じブロックを使って同じ人形を作ろうとするのよ。」

「ふむふむ。」

「もとの人形の設計図が残っていれば、色の配置まで全く間違いの無いものを再び作ることができるわね?」

「ああ、簡単だな。」

「でも設計図が失われていたら?」

「もとの人形らしきもの、ぐらいは作れると思うぜ。」

「そうね。でも色の配置が違ってしまったり、ブロックが余ったり、最悪、ばらしたままで諦めてしまうかもしれない。それが『D』よ。」

「つまり、ダンナがなろうとしているのは『人間らしきもの』でしかねぇんだな。」

「もっと最悪の事も考えられるわ。あの子の体には犬の遺伝子のほかに人間の遺伝子が書き込まれていた。あの恐ろしい男の……」

「前島か! ダンナが前島になるって言うのか?」

「可能性はゼロではない、としか言えないわね。」

 深い苦悩を眉間に刻んで、彼女はまた一つ、ため息をついた。

「データが無さ過ぎる……全てが『ゼロではない可能性』の上にだけ成り立つ予測でしかないわ。」

「ダンナのことだ。奇跡ってのをまた、起こしてくれるさ。」

「そうね、そう思いたい……」

 ドクターが腰にさしていた通信機トランシーバーがぴぴっと受信を告げる。手早くスイッチを押せば、ガガッと耳障りな音があたりに響いた。

【ドクター、例の妊婦が。】

「なに? サクラちゃんがどうしたの?」

【破水しました!】

「今すぐ行くわ。」

 そのやり取りを見ていたハチは、きゅいっと高い音を立てて、眠り続ける獣を呼ぶ。

「ダンナ! 起きろよ、いよいよだぜ!」

「無駄よ。解るわけがない。」

「それでもよぉ……なあ、姐さん、そのシーバー、置いていってくれねえか?」

 ハチの言いたいことがドクターには痛いほどに解った。それがただの感傷でしかないことも十分わかっている。それでも……この獣に奇跡を与えられる者がいるとしたら、たった一人だけ……

 それに、よき友人であり、息子のように見守ってきた彼を失いたくないのは、自分だって同じだ。

「いいわ。ただし、受信だけよ。」

 ボタンを操作したそれを獣の耳元に置きながら、ドクターは小さく囁きかけた。

「あなたはサクラちゃんを置いていったりはしない。そうでしょう、クロ?」


 ストレッチャーで運ばれるサクラに、ドクターが駆け寄る。

「大丈夫ね?」

 大きな呼吸でいきみを逃がしながら、サクラはにっこりと微笑む。

「いい子ね。何も心配しないで、任せておきなさい。」

「ドクター、生まれたら……クロに、ふうっ!……顔だけは見せてあげたい。」

 動揺を決して漏らさぬように……手渡されたカルテを睨みつけながら、ドクターは言った。

「それは後でね。今はただ、子供を産むことだけに集中しなさい。」


 雑音交じりの音声を聞いたハチは、口の端を大きく上げた。

「聞いたかい、ダンナ。愛されてンなあ。」

 それすらも届かず、未だ眠り続ける獣の呼吸は荒い。時折、体のあちこちを局所的にピクリと痙攣させては苦しそうにうめく。黒く変質した身のうちに眠るのは、果たして……

 万が一のときには、ここを封鎖して外海に逃げるようにと指示されている。万が一というのは、理性を失った獣がバケモノじみたその力で暴れだしたとき。そして……

……もし、出てきたのがあの前島バケモノなら……

 ドクターは自分の手で始末をつけるつもりなのだろう。

「ンなこたぁ、させられねぇよな。」

 だからこそ、ハチはこの獣の傍に張り付いている。

「ってのもあるけどな。俺はホントは信じてンだよ。」

 自分だって女房を愛している。それは間違いない。だが、シャチ同士の結婚に誰が異を唱えたわけでもない。

 だが、この黒犬は違う。姿の違う生物への恋心を自ら『禁忌』とした。それでも抑えきれない想いに翻弄され、心をささげ、ついにその恋を成就した。

「俺があんたの立場なら、って考えたんだよ。つまり俺はシャチのままで、女房は人間だ。まあ、外見的イメージは多少、萌えキャラってのを参考にしたんだけどな。」

 結果は……何べん考えても同じだ。ロリだろうがオネエサマキャラだろうが変わらない。少し強気に顎を上げて「くききっ」と怒られたりしたら、自分の欲望を抑えるなんてできない。

「まあ、基本、男は馬鹿だってことだよな。」

 馬鹿だからこそ、馬鹿々々しいほどの底力を見せてくれるはずだ。

「さっさと戻って来いよ。ダンナ。」

 トランシーバが再び雑音交じりの声を伝えた。


「ふうっ、ふうっ……くっ!」

「息を詰めちゃだめよ!」

 分娩台の上で、サクラは苦しんでいた。

 陣痛はますます強く、早いリズムでサクラを苛める。

「ふうっ、ふっ! クロ!」


 遠くから強く呼ばれたその名前に、獣の耳がピクリと動く。


 陣痛から逃れようと、分娩台に載せられたサクラは何度も『夫』の名前を呼んだ。

「クロ……クロ! クロっ!」

 瞼の裏に浮かぶのは、落ち着き無く尻尾を振り回しながら右往左往する黒犬の姿……

『サクラ、どうすればいい? 俺は何をすればいい?』

 幻の中のその姿に、苦痛の涙を浮かべていたサクラがふうっと微笑む。

「そこにいて。居てくれるだけでいいから……」


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