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内容はムーン版と同じです。


 前島の『遺産』の発掘に当たって、ドクターは世界中から科学者を募り、自らの手でふるいをかけ、信用できる人間を最小限だけこの島に招聘した。

 現在のスタッフは全てドクターの腹心。探究心のためなら悪魔とも肩を組むであろう研究者たちは、ここ以上に自分を満たすものがあろうはずも無いことを良く心得ている。それゆえに、決して裏切ることは無いだろう。

 この島には、そんな走狗たちにすら明かされていない秘密が二つある。

 一つは、時々この島を訪れる妊婦。わざわざドクター自らの検診を受けるその腹の子の父親が誰なのか、彼女は決して語ろうとはしなかった。

 もう一つは、島に一本きりの桜の根元に住まう黒い獣。

 『デキソコナイ』と呼ばれる遺伝子操作の失敗作である異形の生き物たちの中にあってさえ、その醜怪な姿は人目を引いた。

 もとは黒く密に生えた毛だったのであろう名残は、あちこちがまだらに禿げ上がって赤黒い皮膚をだらし無く晒している。骨格そのものが大きく歪み、膨れあがった肉に押しあげられた皮膚がぼこぼことあちこちに瘤なしている様は、『肉塊』。

 その肉塊に合計八本もの人間の手足がにょっきりと生えた姿は、初めて見たものなら誰でも嫌悪感を禁じえない。

 雨の日などに彼の鳴き声を聞いてしまった者は、その物悲しい響きに胸を裂かれる。そぼ降る雨を避けようともせず、ただ桜の木を見上げた獣が囁くような声で鳴く。

「サクラ……」

 デキソコナイに言葉などあろうはずも無い。だが、確かにはっきりと、泣く。

「サクラ……」

 あまりの哀れに好奇心すらも萎えるのか、この獣に進んで関わろうとする者は、一人として居なかった。


 若い研究員を従えて桜の木を訪れたドクターは、黒い獣の体に生えた腕の一本を手にして渋面を作る。

「ねえ、これ、どう思う?」

 差し出された指の先は黒く変色し、乾いて脆く変質していた。

「医療は専門ではありませんので。ただ、普通に考えて……壊死ですかね。」

「そうよね。誰が見てもそうなのよね。」

 獣は痛みすら感じないのか、のんびりと体を揺すっている。

「とりあえず、検査と治療の準備を! 私が言う物を地下洞に運んでちょうだい。」

 ばたばたと走り去る若者の背中にぷふんと興味なさげに鼻を鳴らす獣を、ドクターは強くなでた。

「サクラちゃんと約束したんでしょ、死んじゃ駄目よ。それに、もうすぐ……」

 自分が父親になることさえ、すでに心を失った彼には解らないだろう。

 獣の体に秘めたその心の全てを、たった一人の女性に捧げた愛情深い黒犬……


。。。。。。。。。。素体番号111。。。。。。。。。


 外海へと続く海底湖を有する地下洞窟は、掘り起こして改修済みだ。ここならさまざまな医療機器を運び込むのに十分な広さがある。

 強固な岩壁で外から遮蔽されたこの空間なら、『万が一』の異変が起こっても対処できるだろう。

それに、何より……

 ばしゃっと地底の泉を跳ね上げて、見慣れた人懐っこい顔が水面に現れる。くき、と一声をあげたシャチは、検査機器と共に『運び込まれた』黒い獣に目を丸くした。

「しばらく見ねえうちに、随分と太ったなあ、ダンナ。」

 足早に入ってきたドクターがそれを窘める。

「ふざけている場合じゃないのよ。ね、これ、どう思う?」

 室内灯の明かりに一枚の断層写真が翳される。

「俺ぁ、こういうのは苦手なんだって……えっと、ここが筋組織で、これが上皮って奴か?」

 ややしばらくそれを覗き込んでいた彼は、やがてふうっと鼻先を上げた。

「まあ自信は無いけど、脱皮だな。外側の筋肉の下に新しい体が作られているんじゃねぇのか?」

「そうよね。誰が見てもそうなのよ。」

「姐さんが俺の意見を求めるなんて、珍しいな。」

「データ不足なのよ。過去の実験例の中にも、こんな事例は無かった。いっそ、未確認データと言うべきかしら。」

「で? ダンナはどうなっちまうんだよ。」

「解らない。」

「内側に体は出来ているんだ。外側の肉がはがれれば終わりじゃねぇのかい?」

「そんなに簡単な話じゃないわ。外側の組織も内側と複雑に繋がってまだ活動を続けている。このままだと一番恐ろしいのは、坐滅症候群クラッシュシンドロームよ。壊死した細胞から放出される代謝産物が回ったりしたら、内側の体ごと死んでしまうわ。」

 シャチはくるりと瞳を回して黒い獣を振り見る。

 自分が話題となっていることさえわかっていないのだろう。獣はくふくふと落ち着き無く鼻を鳴らしてあたりを嗅ぎまわっていた。

「……嫁さんに教えてやらないのかよ。」

「まさか! サクラちゃんは出産を控えている身よ。ショックで万が一のことがあったりしたら、クロに申し訳が立たないわ!」

 ドクターは自分の口から出たその名前に狼狽し、口を押さえる。無意識のうちに吐き出したその名前がさすのは、目の前にいる哀れな獣のことではなく……

「解るよ。俺だって、これがあのダンナだとはとても思えねぇ。」

「ともかく、透析を続けて様子を見るしかないわね。」

 洞窟の壁に、深いため息だけが響いた。


 その数日後、午後一番のヘリでサクラはこの島に降り立った。

「まあ、大きくなったわねえ。」

 出迎えたドクターはマタニティの上から膨らみきった腹を撫で、必要以上の笑顔を作る。

 笑顔に隠してでも、決して気取られるわけには行かない。この島には、サクラにすら知られるわけにはいかない秘密が、一つ増えた。


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