悪夢の前夜
内容はムーン版と全く一緒です。
R-18に引っかかってしまう方のために、こちらにも・・・
高貴な茶糸の毛をふさりと揺らしながら入ってきた彼は、その部屋の空気に当てられて足を止めた。
ピンクのリネンに彩られた馬鹿でかいベッドの上に座った女の膝に、一匹の黒犬があごを預けて甘えている。綿棒でちょこちょこと耳の中をくすぐってもらって尻尾を振っているのが、気高く賢い我が兄貴分だと思うと、少し情け無くもなってくる。
「スリーワン!」
きびっと響く声に、黒犬が飛び上がった。
。。。。。。。。素体番号126。。。。。。。。
『実験』のために連れ出された黒犬は、前を歩くアフガンハウンドの説教に情けなく尻尾を垂れている。
「まったく、少しは自重してください。他の者に見られたら、示しがつきませんよ。」
あの人間の女は知っているのだろうか。知性と力を兼ね備えた彼が、この施設の犬たちを統べる『アルファ』だということを。
「ううう、だって、サクラが……」
「言い訳はしない!」
「……解ったよ、ちゃーちゃん。」
「!」
それはあの人間の女がつけた愛称だ。
「スリーワン、本当にあんな人間の女なんかとまぐあうおつもりですか。」
「まぐっ! そういう恥ずかしい言い方をするなよ。」
「なぜです。ここのメス犬たちなら、あなたが望めば喜んで体を差し出すでしょう。犬だけじゃない、優秀なあなたなら、メスであればどんな相手だって……」
「相変わらずの人間嫌いなんだな。」
アフガンの隣に並んだ黒犬は、漆黒の瞳をふっと緩めた。
「解らなくはない。ここで育った俺たちは、『人間』にいい思い出が無いからな。」
実験動物である彼らにとって、人間は恐怖の対象でしかない。過酷な訓練を施し、怪しげな薬剤を投与し、腹を捌き開く残忍な生き物だ。
「俺だってはじめは、生殖実験の相手が人間だと聞いてばかばかしく思った。正直、適当に選んでお茶を濁すつもりだったんだ。だが……」
ぷふふんと少し長く鼻を鳴らして、黒犬は薄い耳の皮膚を朱に染めた。
「写真のサクラは笑っていた……人間があんなに優しい顔をするなんて今まで知らなかったから、気が付いたときにはもう……」
鼻先までを赤くするそのほんわり感に、アフガンは深くため息をつく。
「発情したんですか。」
「そういうのじゃない。いや、確かに発情は……するけどな、そういうのじゃないんだ。」
……この兄貴分は、時々『動物』の範疇を超えたことを言う……
それを『人間臭い』ということは知っているが、彼の人間臭さはむしろ、アフガンにとっても好ましいものであった。
「私は犬だから、そういう気持ちは解りかねますね。」
少しすねたような口調に、黒犬が小さく笑ったように見えた。
「お前も気づくだろうよ。どんなに抗おうとも、俺たちの中に人間の心が埋め込まれていることに。」
「私も人間を好きになるというのですか?」
「そういうことじゃない。自分のことより、相手を幸せにしたい、幸せであって欲しいと強く願ってしまうんだ。俺は、サクラを幸せにしてやりたい。」
「やっぱり、解りかねます。」
「お前にも、幸せであって欲しいと思っているぞ?」
「やめてくださいよ、オス同士で、気持ちの悪い。」
「だから、発情じゃないって。」
弟分に鼻先を寄せて、彼は飛び切り優しく鼻を鳴らす。
「早く出会えるといいな、それを教えてくれる『誰か』に。」
黒犬を部屋に送り届けた後で、アフガンは前島の研究室に立ち寄った。
自分を呼び出した『人間』はまだ来ていない。
「全く、コレだから人間という生き物は……」
デスクの上で無防備に開いているパソコンのトップ画面を、彼は何気なく覗き込む。
「『D』超長期投与、被検体?」
そこに書かれた素体番号に、彼は震えだし、わずかに後退さった。
「111……スリーワン!」
かつ、と爪音を鳴らして走り出す彼を塞ぐように、開いたドアの向こうに贅肉が立ちはだかる。
「どこへ行くつもりだい、126?」
太い指の間から見える薬瓶に彼は呼び出された理由を悟った。禍々しい遮光瓶の腹に大きく張られた、忌々しいラベルの文字に!
「ねえ、大事な情報をアルファに伝えに行けないのって、どんな気分? 投薬の前に、ぜひ報告してよ。」
アフガンは深く頭を垂れて思った。
(スリーワン、私は『誰か』に会うことはできないようです。)
今朝、目にした甘い風景が思い出される。あの女と居るときの彼はとても人間臭く、そして……
(どうか必ず、ご自分の幸せを守ってください。)
いまさら自分の中に感じた『人間』の心に苦笑を漏らして、彼はあきらめの瞼を下ろした。
こうして、悪夢は始まる……




