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これだけの研究施設だ。
前島と、その子飼いの研究者以外にも人間はいる。調理や清掃、その他の雑務に従事する職員達もいるのだ。
サクラの身の回りの世話のためにあてがわれた青年も、そんな職員の一人であった。
おなじ人間であるその青年にサクラが心許すのは、仕方のないことである。二日も経てば、サクラは彼と気安い言葉を交わすようになっていた。
今日もこの檻部屋の管理と見回りのために彼が訪れるころあいだ。
軽く手ぐしで髪を整えるサクラに、クロはぷふんと鼻を鳴らす。
「念入りだな」
「別に……あんまりぼさぼさじゃみっともないかな、って……」
「女心ってやつか」
「違うわ。えっと……『人間』としての身だしなみってやつよ」
黒犬はサクラから視線を引き離し、冷たい鉄格子に鼻先を押し付けた。
「そうか、じゃあ俺に理解できないのは当たり前だな」
「何をいじけているの?」
サクラから見れば、後ろ足の間に挟まるほどしょんぼりと垂れた尻尾が丸見えである。
「別にいじけているわけじゃない」
その男はサクラに親切だ。
ここでの清掃作業は全自動化されている。人間がしなければならない仕事と言えば、機械では不十分だった部分の清掃と、エサを配ることぐらい。
自分の仕事が済むと男は鉄格子の隙間から菓子などを差し入れ、サクラとの四方山話など楽しむ。
黒犬はといえば、耳をそばだてて不貞寝するしかない。
「一応警告だけはしておくぞ。この施設で一番油断ならない生き物は『ニンゲン』だ」
「うん、でも、大丈夫だよ?」
……クロがいてくれるから……
サクラはその信頼を口にすることをためらった。
この黒犬は、全てをかけて守ると言った。『全て』とはどこまでなのだろう。
それを確かめる隙もなく、重々しい扉が開いた。獣達は静まり返り、檻の奥から敵意のこもった眼差しでその男を出迎える。
それを気にすることもなく、若いニンゲンの男はサクラとクロの檻を覗き込んだ。
「やあ、よく眠れたかい?」
にこやかに微笑みながら着替えを差し出す彼の違和感を、サクラはいち早く感じ取っていた。
いつもなら檻の中に差し入れられるそれは、今日に限って鉄格子のぎりぎりに置かれている。サクラの方から手を差し出さなくては届かない距離感は、焦らし、おびき出そうとしてでもいるかのようだ。
「着替え、必要でしょ?」
ちゃりっと鍵束を取り出す姿に、サクラの不信は嫌でも募る。
「いやいや、遠慮しないで。そこまで持っていってあげるから」
檻を開けて無遠慮に入り込んだ男は、サクラを容易く捕まえた。
「へえ、着やせするタイプか。キライじゃない」
無骨な指が腰を引き寄せ、その形をなぞる。
「いや! 触らないで!」
悲鳴を上げる彼女を守ろうと低く身を構えた黒犬は、僅かに香る匂いの変化に戸惑った。
(……甘い)
子供ではないのだから知っている。愛する男を求める、誘惑の香り……
(まさか、その男のためにっ?)
牙の間からくふうと呼吸が漏れる。
(そうか……人間同士だ。自然なことか)
黒犬はサクラに背を向け、ぺたりと腹を落とす。
「やめて!」
聞きたくない、見せ掛けの拒絶など。
「やだ! 助けて!」
くふ、くふ、と呼吸を吐きながら、クロは耳を塞いだ。
空気の流れに混じる、湿った塩気の匂いはサクラの涙だろう。耳を塞いでもかすかに聞こえる彼女の声が呼ぶのは……
「クロ!」
黒犬の全身がぞわっと総毛立った。
「クロ、助けて、クロ!」
このざわめきは理性なのか本能なのか……ただはっきりと解ることは、彼女の声が呼び求めているのが自分であるという自惚れだけ。
あの甘い香りがどのオスに向けてのものでも構いはしない。
「クロ!」
解き放たれた野生は牙をためらったりしない。人間の目には黒い風が吹いたようにしか見えなかった。
鈍い痛みを感じた男が腕を押さえるよりも早く、抉られた傷口から血潮が噴きあがる。
「うわああああああ!」
情けない声をあげてサクラを手放したその隙を、黒犬は見逃したりはしなかった。
大きな体を当て、男を檻の外へとはじき出す。
「このクソ犬が!」
掴みかかろうとする勢いに向けて鉄格子の入り口を叩きつける。
挟まった指が金属の隙間に押しつぶされて飛んだ。
「ひあ、ひあああああああ……」
尻を上げることもできず、ずる、ずると後ろに下がったその体を、向かいの檻の中からぬうと突き出したチンパンジーの腕が羽交い絞めにする。
監視カメラの異常に気づいたのであろう、肉を揺すりながら駆けつけた前島はその状況に呆れきったため息をついた。
「派手にやってくれたね」
檻の中の黒犬を覗き込む。
「全く大したナイトだ」
サクラはふと、わざとらしく唸っている黒犬が怒鳴りだしてしまうのではないかと不安を感じた。
それほどに前島の表情は挑発的だ。
「くっ、クロは悪くない! その人が変なことをしようとするから!」
「へえ、クロ……ね」
挑発の色は消さぬまま、前島はにんまりと笑った。
「随分といい名前をつけてもらったじゃないか、スリーワン?」
「私は大事な実験動物なんでしょ! こういうことがあると、困るのはあなたなんじゃないの!」
肉の塊が大仰に揺れる。
「実験動物としての自覚ができたのかい? 大いに結構。今後はこんな『事故』など起こらないように少し考えよう。取り敢えずはこの役立たずを……」
傷口を必死で押さえる若い男を見下ろすその目は、ぞっとするほど冷たい。不快な害虫を踏み潰すときのような、サディスティックな喜色にさえ満ちている。
「始末してから考えよう」
振り向いた視線の冷酷さに耐え切れず、サクラは目を背けた。