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 布団を占拠して不貞寝をかましているクロは、ドアが遠慮がちに開く音を聞いた。

 ひた、ひたと歩み寄る足音が、柔らかな声をクロに降らせる。

「さっきは……ごめんね。」

 身を起こしたクロには、逆光になったサクラの表情は見えない。だが、その声が微かに震えていることが、クロの怒りを吹っ飛ばした。

「馬鹿! また熱が上がったらどうする!」

 ぐい、とその手を引いて、サクラを布団に引きずり込む。

「風邪には睡眠が一番の薬なんだぞ。こんな遅くまで起きてないで、寝ろ!」

 ぽんぽんと背中を叩く大きな手のひらには優しさだけがこもっていた。

「何か食えたか?」

「りんごのゼリー……クロが買ってくれた。」

「……そうか。」

 サクラの腕がそろりと躊躇いがちに、堅く筋肉にくづいた胸板を抱き返す。

「本当に、ごめんね。」

「いや、謝るのは俺のほうだ。あぶく銭を稼いだぐらいで夫気取りなんて、思い上がりだな。」

「違うの。八つ当たりなの。ただ心細くて、そばにいて欲しかっただけなのに……」

「そばに? 俺にか?」

 柔らかく背中を叩いていた手が止まった。

「お前の黒犬に、じゃなくて?」

 逆に、サクラの腕は強くクロを引きよせる。

「サクラ、言わないでここを去るつもりだったが……聞いてくれるか?」

 耳朶に吹き込むように、ゆっくりと、丁寧に言葉がつむがれた。

「初めてお前の事を聞いたとき、責任を取らなくてはいけないと思った。犬だった俺がしでかした過ちを清算して、人間としての幸せをお前に与えてやるのが、俺がお前にしてやれるたった一つの償いだと思っていた。」

 真摯に、ひたすらに、その胸の真実だけをサクラに伝える・

「だが、初めてお前に会った瞬間に、俺の中にはもう一つの思いが生まれた。俺が幸せになりたいと……黒犬だった俺がお前からもらった『幸せ』が欲しいと、心から思ったんだ。せめてカラダだけでも良い。おまえが欲しかった。」

 劣情も、愛情も、全てをさらけ出してクロの声は響く。

「だけど今は……ただ俺を呼んで欲しい。」

「前島がつけた番号なんか、絶対に呼ばない!」

「解っている。だから、呼んでくれ。」

 サクラの唇がグ、と耳元に寄せられ、ひたすらに求め続けた懐かしい男を呼んだ。

「クロ。」

「サクラ……記憶はなくても、今なら解る。お前はそうやって、スリーワンという実験動物を、『クロ』という男にしてしまったんだ。」

「クロ、ずっとそばにいて。」

「じゃあ、俺と一緒に島に来るか?」

 サクラが悲しそうに身を引く。

「二人でなら、それで良いかもしれない。でも、今はウメがいる。」

「そうか。」

 その声に、悲しみの色はなかった。ただ、何かを考えるような響きで、サクラに届く。

「とりあえず、その風邪を治すことが先決だ。俺はここにいるから、安心して眠れ。」

 『クロ』のぬくもりに包まれる安心感が、サクラを眠りへと堕としていった。


 目覚めのキスの代わりに、額に唇で触れたクロは、にっこりと笑った。

「うん、熱は下がったようだな? 何か食うか?」

 回復した体は、空腹をサクラに自覚させる。

「……白身入りスクランブル……」

「失礼だな。普通のスクランブルも作れるぞ。……たぶん。」

 その優しい笑顔は、ただただサクラの上に降り注ぐ。

「まあ、腹が減るのは元気な証拠だ。サクラ、飯を食ったら花見に行こう。」

 同じぐらい優しい唇が、サクラに降った。

「……大事な話が……あるんだ。」


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