⑦
一晩中泣いていたせいだろうか。喉が熱い。
「痛っ!」
体を起こしたサクラは、激しい頭痛に顔をしかめた。
隣でサクラを抱きしめていた男が、その気配に目を覚ます。
「どうした?」
優しく鼻先を押し付けた男は、サクラの体が熱いことに少しうろたえた。
「熱がある? そうか、だから悪夢を……」
ベッドを抜け出そうとする男に、頼りなく震える細い腕がすがりつく。
「やだ。どこへ行くの?」
「とりあえず薬を……水分も必要だな。」
「行かないで。そばにいて。」
男はもそりと向き直り、たくましい腕の中にその細い体を抱きしめた。
「解った。だから、眠れ。」
悪寒に胴震いながら、サクラは目の前にいる男の名を呼ぶ。
「……クロ。」
「サクラ、いい加減に俺の名前を……」
彼は続きの言葉を飲み込み、微かに汗ばんだ額に唇を近づけた。
熱による浅いまどろみから抜け出した頃には、窓の外はすでに薄暗くなっていた。部屋の中に彼の気配はない。
「クロ?」
サクラは、よろよろとリビングへ向かう。
そこにもクロの姿はなく、ウメに絵本を読んでいたおばちゃんが顔を上げた。
「気分はどうだい?」
「……あ、仕事……」
「全く、あんたはまじめだねえ……私がちゃんと電話しておいたよ。病気の時ぐらい、仕事なんか忘れな。」
ぶるりと震えるサクラに、ウメが心配そうに擦り寄る。
「母ちゃ、さむい?」
「あまり近寄っちゃダメよ、うつるから。」
柔らかな髪をくしゃくしゃと撫でながら、それでも、朝よりは幾分具合がいいことに彼女は気づいた。
「あの子が家中の薬を引っ張り出して、あんたに飲ませていたよ。」
「それで、クロは?」
「さあ? ふらりと出て行って、まだ……」
ちょうど玄関が開いて、上機嫌な声が部屋に響き渡る。
「ウメ、お土産あるぞー。」
リビングに入って来たクロは、両手いっぱいに色とりどりの袋を提げていた。
「サクラ! もう起きても平気なのか?」
嬉しそうな微笑みを投げかけながら、クロは走りついてきた子供に一番大きな包みを渡す。
「Wiiだ。父ちゃんと対戦しような?」
「こんな高いもの、どうしたんだい!」
「あ? パチンコだよ。全く簡単なからくりだな。確率の偏り値を大きくすることで、連チャン期を発生させる。いわゆる『波』というやつだ。その波の周期を計算して……」
「一日中、パチンコしてたの?」
サクラの言葉に含まれた微かな怒りに、クロは気づかなかった。
「一日中じゃないぞ。必要なデータを集めるために、午前中は……」
「私が熱で苦しんでいるときに、パチンコ屋にいたのっ?」
今度は、はっきりと怒りが伝わった。
「……仕方ないだろう。『人間』は金が要る。」
「お金なんかっ!」
「なきゃ困るだろ! あんまりほめられる稼ぎ方じゃないのは、俺だって解っている。だが、国籍も、身分もない、ただの『犬』が稼ぐ方法なんて!」
「クロは……! 犬だった頃のクロは、そんな事言わなかった!」
どさりと、その両手から袋が滑り落る。クロは深くうなだれた。
「……そんなに、昔の俺がいいのか、サクラ?」
搾り出すようなその声に、サクラはハッと身を引く。
「お前がどんなに望もうと、昔の俺に戻ってやることは出来ない……お前がどんなに嫌っていようと、俺は……」
言葉が涙に呑まれた。
クロは俯いたまま静かに、ただ静かにリビングから出て行く。
おばちゃんが、その不器用なやり取りに大きな溜息をついた。
「あんただって、もう気づいているんだろ。あんなぶきっちょな男、二人といないよ。」
「うん……解ってる。」
床に落ちたビニール袋の中には、コンビニの棚を買い占めたんじゃないかというほどのゼリーとヨーグルト、それに、スポーツドリンクが詰まっていた。




