⑥
夕方、仕事から帰ってきたサクラを出迎えたのは、実に笑える光景だった。
家の前に佇む、泥だらけの親子……
「何してるのよ。」
「うう……これ、066に怒られるかなぁ?」
顔にまでべっとりと泥をつけた父親は、情けない子犬のような上目遣いだ。
「父ちゃ、お山、でっかいの。」
「お山、作ったの? 楽しかった?」
泥の塊に成り果てた息子は、遊び倒した満足な顔でにっこりと微笑む。
「仕方ない。一緒に謝ってあげるから。」
「うう……すまん。」
「お風呂に入ったら、着替えを買いに行かなくちゃね。」
買い物袋を提げた『夫婦』が夕暮れの桜並木を歩いている。
見上げた蕾は僅かに緩み、すでに開いた数輪の花が南風に揺れていた。
「もう少し温かくなったら、一気に咲くわよ。」
「そうか。これだけの木が花に染まる様は、圧巻だろうな。」
「この桜が咲いたら……」
彼は、本当にいなくなってしまうのだろうか。
「どうしても、あの島に帰るつもりなの?」
「ああ、俺にはほかに行くところもないからな。それに、あの島には俺の桜がある。」
ふっとほころぶ彼の顔は、抱きなれたオンナを思い出すような色気を感じさせる。
「島にはたった一本、桜の古木があって……俺のためだけに、毎年花を咲かせてくれる。」
「知ってる。」
それは、サクラにとっても思い出の木……今、目の前にいるこの男は知らないだろう。
その木漏れ日の下で、サクラがオンナになった日のことを……
「俺はデキソコナイになった後も、あの桜の下から離れられなかった。この姿になってからも、だ。」
人間の姿の中に、優しい面影だけを残した黒犬すら知らないだろう。……満開の下で、会えないオトコを想ってサクラが流した涙を……
「あの木の下だけが、俺の帰る場所なんだ。」
「……ウメは、連れて行かせないわよ。」
突如むき出しになった警戒心に、クロは悲しそうに瞳を伏せた。
二人の間を、ただ、南風が柔らかく通り過ぎてゆく……
……夢を見た……
サクラの夢の中で、その古木は満開の花を降らせていた。
その幹肌に、優しいあの獣が寄り添っている。
『クロ!』
声が、桜吹雪に掻き消された。
『クロ、お願い、こっちを見て!』
漆黒の瞳は、艶潤んで花を見上げる。
『クロ、お願い! 私を置いていかないで! 行かないで!』
いっそう降る花びらが、黒い体を包むように隠した。
「クロ!」
夢の続きを叫んで、サクラは目を覚ました。
一人きりの部屋は暗く、再び眠るには今の夢はあまりにも……
「……クロ……」
涙混じりのつぶやきに、駆け寄ってくる足音が応える。部屋に、漆黒の瞳のオトコが飛び込んできた。
「サクラ、どうした!」
「夢を……」
「夢ぇ?」
その男は、あきらかな安堵の溜息を漏らして、サクラに体を沿わせる。
「怖い夢だったのか。」
その温かさに寄り添って、サクラは涙を流した。
「クロ、お願い、置いていかないで……」
「泣くな、俺はここにいる。」
「クロ……クロ……」
浮かされたようにサクラが呼び続けている『男』に、彼はちりちりと焦がされるような憎しみを感じた。同時に、その涙を止めることができない自分にも……
がばと胸をはだけ、涙に濡れた顔をそこに抱きこむ。
ぱさりと乾いた毛並みが、懐かしい男の香りでサクラを包んだ。
「クロ、もうどこにも行かないで。ずっと、そばにいて……」
ただ涙を受け止めるしか出来ない苛立ちに、その男はサクラに回した腕を解くことが出来ずにいた。




