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 翌朝、卵の焼ける香ばしい匂いでサクラは目を覚ました。

 一人寝のベッドには、微かなぬくもりだけが残っている。

「何やってんだい! このぶきっちょ!」

 けたたましい怒鳴り声に、キッチンへ飛んでいくと、そこには幸せな光景が広がっていた。

 チャイルドチェアーに座ったウメは、ケチャップだらけの手でニコニコと笑っている。

 エプロンをつけたおばちゃんは、床に落ちた卵の殻を拾いながら、自分の息子を叱り飛ばしている。

 そして、卵液にまみれたその男は……サクラを見ると、笑顔で駆け寄ってきた。

「すまん、ぎりぎりまで寝かしてやろうと思ったんだが……あのババアがうるさかったか?」

「親をババア言わないっ!」

 男の目には、キーキーとわめくチンパンジーの姿は映らない。

「だが、ちょうどよかった。温かいうちに食ってくれ。」

 差し出された皿に乗っているのは、何の変哲もないスクランブルエッグ。にしては?

「白身入りスクランブルだ。」

 黒い瞳を輝かせたドヤ顔が眩しい……

「目玉焼きにしたかったんだとよ。」

「うう……白身入りスクランブルだぞ?」

「全く、たまげたぶきっちょっぷりだね。」

「仕方ないだろ! ついこの間まで、肉球だったんだぞ!」

 ウメがタイミングよく、奇声を上げて笑った。

 一幅のあたたかな光景に、夜のみだらな欲熱とは違う、柔らかな熱がサクラからじわりと滲み出す。

だがその熱に戸惑っているのは、他でもないサクラ自身だった。


 サクラが出かけた後のクロは、所在無く部屋に転がっていた。

「暇なら、ウメのお守りでもしておくれ!」

 怒鳴られてリビングに行くと、実に不可解な生き物がテレビの前で踊っている。

(面白い。)

 子供番組を見ながら真似しているつもりなのだろうが、まずリズムが合っていない。

 短い手足を不器用に振り回して、気分とノリでクルリとポーズを決める様は……

「お前、本当に可愛いな。」

 振り向いたウメは、クロの手を引いた。

「父ちゃ。」

「俺も? 踊れって言うのか。」

 見よう見まねで手を振れば、幼子が声をあげて笑う。

「ウメ、高い高いだ!」

 体を抱え上げてやると、ちょっと乱暴な父親の遊びに、ウメのテンションが上がった。

「もっとー!」

「よしっ! 飛行機だー。」

 我が子をしっかりと掴んだ手のひらに伝わる重さに、自分の中の父性を自覚する。

「俺の息子……」

 彼女に全てを許された証……何人のオトコに抱かれたのか知らないが、あのカラダの全てを知っているのは、俺だけだ。

「……いや、俺じゃないのか。」

 俺が覚えていない、過去の中の『俺』。未だ彼女の心を囚え続ける、忌々しい黒犬……欲望のままに子種を注ぎ込み、身重の彼女を捨てた、無責任な黒犬おれ……

 乳臭さの残る小さな子供を、クロはキュッと抱き寄せた。

「ウメ、父ちゃんと一緒に行こう。」

「どこへ?」

「父ちゃんのお家だ。」

「母ちゃも?」

「母ちゃんは……」

……望んではいけない。願ってもいけない。今の俺は彼女が愛した黒犬ではないのだから。それは、彼女の愛し方すら覚えていない俺には許されないのだから……

「……サクラ……」

 ポロリとこぼれた涙に、ぷくぷくした小さな手が触れる。

「父ちゃ、いたい?」

「ウメは、優しいな。」

 すり、と頬寄せると、幼子はくすぐったそうに笑った。


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