⑤
翌朝、卵の焼ける香ばしい匂いでサクラは目を覚ました。
一人寝のベッドには、微かなぬくもりだけが残っている。
「何やってんだい! このぶきっちょ!」
けたたましい怒鳴り声に、キッチンへ飛んでいくと、そこには幸せな光景が広がっていた。
チャイルドチェアーに座ったウメは、ケチャップだらけの手でニコニコと笑っている。
エプロンをつけたおばちゃんは、床に落ちた卵の殻を拾いながら、自分の息子を叱り飛ばしている。
そして、卵液にまみれたその男は……サクラを見ると、笑顔で駆け寄ってきた。
「すまん、ぎりぎりまで寝かしてやろうと思ったんだが……あのババアがうるさかったか?」
「親をババア言わないっ!」
男の目には、キーキーとわめくチンパンジーの姿は映らない。
「だが、ちょうどよかった。温かいうちに食ってくれ。」
差し出された皿に乗っているのは、何の変哲もないスクランブルエッグ。にしては?
「白身入りスクランブルだ。」
黒い瞳を輝かせたドヤ顔が眩しい……
「目玉焼きにしたかったんだとよ。」
「うう……白身入りスクランブルだぞ?」
「全く、たまげたぶきっちょっぷりだね。」
「仕方ないだろ! ついこの間まで、肉球だったんだぞ!」
ウメがタイミングよく、奇声を上げて笑った。
一幅のあたたかな光景に、夜のみだらな欲熱とは違う、柔らかな熱がサクラからじわりと滲み出す。
だがその熱に戸惑っているのは、他でもないサクラ自身だった。
サクラが出かけた後のクロは、所在無く部屋に転がっていた。
「暇なら、ウメのお守りでもしておくれ!」
怒鳴られてリビングに行くと、実に不可解な生き物がテレビの前で踊っている。
(面白い。)
子供番組を見ながら真似しているつもりなのだろうが、まずリズムが合っていない。
短い手足を不器用に振り回して、気分とノリでクルリとポーズを決める様は……
「お前、本当に可愛いな。」
振り向いたウメは、クロの手を引いた。
「父ちゃ。」
「俺も? 踊れって言うのか。」
見よう見まねで手を振れば、幼子が声をあげて笑う。
「ウメ、高い高いだ!」
体を抱え上げてやると、ちょっと乱暴な父親の遊びに、ウメのテンションが上がった。
「もっとー!」
「よしっ! 飛行機だー。」
我が子をしっかりと掴んだ手のひらに伝わる重さに、自分の中の父性を自覚する。
「俺の息子……」
彼女に全てを許された証……何人のオトコに抱かれたのか知らないが、あのカラダの全てを知っているのは、俺だけだ。
「……いや、俺じゃないのか。」
俺が覚えていない、過去の中の『俺』。未だ彼女の心を囚え続ける、忌々しい黒犬……欲望のままに子種を注ぎ込み、身重の彼女を捨てた、無責任な黒犬……
乳臭さの残る小さな子供を、クロはキュッと抱き寄せた。
「ウメ、父ちゃんと一緒に行こう。」
「どこへ?」
「父ちゃんのお家だ。」
「母ちゃも?」
「母ちゃんは……」
……望んではいけない。願ってもいけない。今の俺は彼女が愛した黒犬ではないのだから。それは、彼女の愛し方すら覚えていない俺には許されないのだから……
「……サクラ……」
ポロリとこぼれた涙に、ぷくぷくした小さな手が触れる。
「父ちゃ、いたい?」
「ウメは、優しいな。」
すり、と頬寄せると、幼子はくすぐったそうに笑った。




