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 夜のバイトを終えて店を出たサクラは、歩道の縁石に座る男に身を堅くした。

「うう……そんなに警戒しないでくれ、ただ、その……夕べは、すまん。」

 真っ赤になった耳をかきむしる懐かしいしぐさに、サクラの警戒が一気に緩む。

「クロ?」

「スリーワ……ああ、もう! クロでいいや。」

 膝の裏と背中に回るクロの腕に、サクラが飛びのいた。

「何するの!」

「疲れているだろう? 家まで抱いてやる。」

「そんな……無理っ!」

「じゃあ、おんぶるか?」

「子供じゃないんだから、大丈夫よ。」

「カバン! せめてカバンくらいは持つからな!」

 店の中から、若いというには頭の薄い、中年というには顔立ちの若い男が飛び出してくる。手に持っているポーチは、どう見てもさほど大事なものが入っているようには見えない。

「佐藤さん、忘れも……」

 ちょっと上ずった声が、クロとサクラの親密な距離感に固まった。

(わかりやすい男だ。)

 腰を抱いてサクラを引き寄せると、男の顔が驚きでだらしなく緩む。

「ちょっと、クロ!」

「くろ?」

 愛犬のような呼び名に怪訝そうな顔をされると、クロは冷たいほど完璧な笑顔を男に投げかけた。

「馬鹿が、愛称に決まっているだろう? 母が、画家のモネが好きでね、『黒有人くろうど』という名前なんだ。」

 嘘で固めた言葉を振りかざし、その間抜けな男に切りかかる。

「でも、『最中』の彼女には言いにくいらしくてな。いつの間にか、『クロ』に……」

 長い指が、自分がつけた赤いしるしを暴くように、サクラの細い首筋を撫でる。

「っカレシ? このまえ、別れたって……」

「別れた? 違うな……俺が別れさせたんだ。」

「クロ、そんな嘘を……」

「黙っていろ。」

 キスで唇をふさぎ、言葉を喉の奥へ落とし込んでやれば、口腔を伝って鼓膜を揺すられる感覚に、サクラの膝はカクンと堕ちた。

 クロはそんなサクラを抱き上げて、青ざめた男に微笑む。

「あんたは……ああ、忘れ物を届けてくれたんだったな。ごくろうサン。」

 サクラの腕が、頼り切ったようにクロの首に回されたその瞬間、勝負は決まった。

 

 大股でずんずんと歩くクロの腕の中は、ゆさゆさと揺れる。

 クロの首にしがみついたサクラからは、その耳しか見えなかった。

「クロ、耳赤いよ。」

「黙っていろ。」

「あの人は、ただのバイト仲間だよ。」

「!」

 クロは腕を緩めて立ち止まり、サクラを見る。

「あいつは、そうは思っていないぞ。」

「だからって、あんな嘘……」

「いいんだよ。あいつはたぶん、好きな女を非道なやり方で奪った俺を恨むだろう。お前が恨まれるより安全だ。」

 街頭の明かりは青白く射し、クロは悲しんでいるように見えた。

「それに、あいつはお前を馬鹿にした。」

「馬鹿になんか、された?」

「一瞬、『もう次の男が出来たのかよ』みたいな顔をした。あんな男にだけは、お前を渡すわけにはいかない。」

 ちり、と身を焦がす心に耐え切れず、クロはサクラを強く抱きしめた。

「頼む! 『クロ』と呼んでくれて構わない。だから……そばにいさせてくれ。」

「……桜が咲くまで?」

「ああ、それで構わない。」

……十分だ。俺はもう、お前が愛した黒犬ではないのだから……

 うなだれて待つ彼に、サクラが与えたのは赦しの言葉だった。

「家に帰ろう、クロ。ウメが待ってる。」


 サクラを抱えたまま部屋のドアを開けたクロは、ベッドの真ん中に眠るウメを見て苦笑した。

「066め、やりやがったな。」

 クロがサクラを抱きつぶさないよう、おそらくは戒めとしてここに寝かせたのだろう。

「そこまで非道じゃないぞ。」

 赦しの言葉を受けた今なら、拒まれることも無いかもしれない。彼女を抱いてしまいたい気持ちは、もちろんある。

 だが腕の中でまどろみかけているサクラを起こすのは……忍びない。

 スプリングを軋ませながらその体を横たえてやると、クロは壁際の狭いスペースに自分ももぐりこんだ。

(さすがに、三人では狭いな。)

 だが、それが逆にクロと、小さな寝息の距離を近づける。

 少し高めの子供の体温がすっぽりと胸元に寄り添っている。そして、手の届く距離にある、安心しきったような寝顔……

「……サクラ。」

 そっと名前を呼べば、その顔が一瞬ほころんだように見えた。

(熱い……)

 イッキに理性を焼ききろうとする劣情の熱ではなく、じわりと染み込む優しい……

(そうか、これが幸せってやつか。)

 その甘いだけの熱を指先に込めて、クロはサクラの頬にそっと触れた。



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