④
夜のバイトを終えて店を出たサクラは、歩道の縁石に座る男に身を堅くした。
「うう……そんなに警戒しないでくれ、ただ、その……夕べは、すまん。」
真っ赤になった耳をかきむしる懐かしいしぐさに、サクラの警戒が一気に緩む。
「クロ?」
「スリーワ……ああ、もう! クロでいいや。」
膝の裏と背中に回るクロの腕に、サクラが飛びのいた。
「何するの!」
「疲れているだろう? 家まで抱いてやる。」
「そんな……無理っ!」
「じゃあ、おんぶるか?」
「子供じゃないんだから、大丈夫よ。」
「カバン! せめてカバンくらいは持つからな!」
店の中から、若いというには頭の薄い、中年というには顔立ちの若い男が飛び出してくる。手に持っているポーチは、どう見てもさほど大事なものが入っているようには見えない。
「佐藤さん、忘れも……」
ちょっと上ずった声が、クロとサクラの親密な距離感に固まった。
(わかりやすい男だ。)
腰を抱いてサクラを引き寄せると、男の顔が驚きでだらしなく緩む。
「ちょっと、クロ!」
「くろ?」
愛犬のような呼び名に怪訝そうな顔をされると、クロは冷たいほど完璧な笑顔を男に投げかけた。
「馬鹿が、愛称に決まっているだろう? 母が、画家のモネが好きでね、『黒有人』という名前なんだ。」
嘘で固めた言葉を振りかざし、その間抜けな男に切りかかる。
「でも、『最中』の彼女には言いにくいらしくてな。いつの間にか、『クロ』に……」
長い指が、自分がつけた赤い標を暴くように、サクラの細い首筋を撫でる。
「っカレシ? このまえ、別れたって……」
「別れた? 違うな……俺が別れさせたんだ。」
「クロ、そんな嘘を……」
「黙っていろ。」
キスで唇をふさぎ、言葉を喉の奥へ落とし込んでやれば、口腔を伝って鼓膜を揺すられる感覚に、サクラの膝はカクンと堕ちた。
クロはそんなサクラを抱き上げて、青ざめた男に微笑む。
「あんたは……ああ、忘れ物を届けてくれたんだったな。ごくろうサン。」
サクラの腕が、頼り切ったようにクロの首に回されたその瞬間、勝負は決まった。
大股でずんずんと歩くクロの腕の中は、ゆさゆさと揺れる。
クロの首にしがみついたサクラからは、その耳しか見えなかった。
「クロ、耳赤いよ。」
「黙っていろ。」
「あの人は、ただのバイト仲間だよ。」
「!」
クロは腕を緩めて立ち止まり、サクラを見る。
「あいつは、そうは思っていないぞ。」
「だからって、あんな嘘……」
「いいんだよ。あいつはたぶん、好きな女を非道なやり方で奪った俺を恨むだろう。お前が恨まれるより安全だ。」
街頭の明かりは青白く射し、クロは悲しんでいるように見えた。
「それに、あいつはお前を馬鹿にした。」
「馬鹿になんか、された?」
「一瞬、『もう次の男が出来たのかよ』みたいな顔をした。あんな男にだけは、お前を渡すわけにはいかない。」
ちり、と身を焦がす心に耐え切れず、クロはサクラを強く抱きしめた。
「頼む! 『クロ』と呼んでくれて構わない。だから……そばにいさせてくれ。」
「……桜が咲くまで?」
「ああ、それで構わない。」
……十分だ。俺はもう、お前が愛した黒犬ではないのだから……
うなだれて待つ彼に、サクラが与えたのは赦しの言葉だった。
「家に帰ろう、クロ。ウメが待ってる。」
サクラを抱えたまま部屋のドアを開けたクロは、ベッドの真ん中に眠るウメを見て苦笑した。
「066め、やりやがったな。」
クロがサクラを抱きつぶさないよう、おそらくは戒めとしてここに寝かせたのだろう。
「そこまで非道じゃないぞ。」
赦しの言葉を受けた今なら、拒まれることも無いかもしれない。彼女を抱いてしまいたい気持ちは、もちろんある。
だが腕の中でまどろみかけているサクラを起こすのは……忍びない。
スプリングを軋ませながらその体を横たえてやると、クロは壁際の狭いスペースに自分ももぐりこんだ。
(さすがに、三人では狭いな。)
だが、それが逆にクロと、小さな寝息の距離を近づける。
少し高めの子供の体温がすっぽりと胸元に寄り添っている。そして、手の届く距離にある、安心しきったような寝顔……
「……サクラ。」
そっと名前を呼べば、その顔が一瞬ほころんだように見えた。
(熱い……)
イッキに理性を焼ききろうとする劣情の熱ではなく、じわりと染み込む優しい……
(そうか、これが幸せってやつか。)
その甘いだけの熱を指先に込めて、クロはサクラの頬にそっと触れた。




