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 真夜中、自分の上にのしかかる熱を感じて、サクラは目を覚ました。

「ふん、わざわざお前だけ別部屋ってのは、誘ってるのか?」

「ち、違うっ! 仕事で、起きる時間が早いから……」

 あわてて押しのけようとする腕を、その男はやすやすと捕まえる。

「まさか、もう次の男がいるのか?」

「そんな訳ないでしょ!」

「じゃあ、いいじゃないか。子供まで成した仲なんだし。」

 サクラを組み敷いたクロは、その首筋に唇を近づけた。

「やめて!」

「獣じゃない俺じゃ、満足できない、か。」

「違う、そういうわけじゃなくて……」

 声だけは、甘く低く、懐かしい熱を運んでくるのに……柔らかく首筋に伝う唇の感触は、切ないほど不恰好な大きな口吻とは違う。まるで知らない男のものだ。

「自分で言うのもなんだがな、犬だった頃とはカタチも、オオキサも違う。楽しめると思うぞ。」

 熱い劣情の唇が、薄い首の皮に強く吸い付く。

 拒絶の涙がサクラの頬を伝い落ちた。

「お願い……やめて……」

「!」

 唇が離れる。クロは身を起こし、憎々しげに鼻先に皺を寄せた。

「泣くほど……なのか?」

 長い指の生えた人間のオトコの手が、その涙に伸ばされる。女はびくりと、再びの拒絶に震えた。

「怯えないでくれ。もう、何もしない。」

 それでもその瞳は、恐怖と拒絶に震え、なす術も無く自分を組み敷いた男を見上げている。

 男はがしがしと耳の後ろをかきむしった。

「何もしないって言っているだろう!」

 ベッドから乱暴にシーツが引き剥がされる。微かな月明かりが白い布地に透けた。

 クロはそれをぐるりとサクラの体に巻きつけ、その上から細い体をきゅうと、強く抱きしめる。シーツ越しの体温は微かに高く、サクラに懐かしい熱を運んだ。

 あの黒犬と変らない、低く優しい声が耳元で囁く。

「本当は……お前に会うのも楽しみにしていたんだぞ。犬だった俺を、子供まで産むほどに愛してくれたオンナだ。なのに……」

 間違いようの無い、いとおしい漆黒の瞳。劣情と愛情の狭間に揺れながら潤む夜の色……

「クロは……帰ってこないから……会えると思わなかったから……」

 ふるりと熱に浮かされながら思わず漏らしたサクラの言葉が、その漆黒に暗く影さした。「……賢明だな。お前が愛したあの黒犬は、もう帰ってはこない。」

 力強い抱擁が色あせるように、彼の腕は抱きしめるための力を失う。

「クロ!」

 指先が離れ、優しさが漆黒の中にまぎれる。

「……スリーワンだ。」

 男はシーツの塊を手放し、部屋を出て行った。


 布団の中まで差し込む太陽が、クロの眠りを取り上げた。

「サクラ……か。」

 シーツ越しの体温を、まだ指先が覚えている。

……あれは、確かに『劣情』だった……

 欲望のままに、ただカラダだけを渇望した。理性を焼ききるほどの熱に浮かされ、あのオンナの部屋へ押し入った。

(犬だった俺は……)

 やっぱり、狂わされていたんだろうか……花のように匂う体は、抗いがたい欲情でオトコの本能に熱を与える。

(酷い抱き方をしたに決まっている。)

 記憶をなくした今となっては、『サクラ』の愛し方すら覚えてはいない。だが、実験動物として生を受けたことまで忘れたわけではない。もちろん、『兵器』としての訓練を受けたことも……

(そんな俺が、真っ当に誰かを好きになれるわけが無い。)

 二度寝の入り口で鬱々と惑う想いは、跳ね上げられた布団と共に吹き飛んだ。

「いつまで寝ているつもりだい!」

 エプロン姿のチンパンジーが、前歯を剥く。

「あの女は?」

「とっくの昔に仕事に出かけたさ。」

 ばさばさと布団をたたみながら、おばちゃんは息子に繰言をぶつける。

「夕べは何をやらかしたんだい! あの子は泣き腫らした顔で起きてきたよ。」

「ああ、フウフセイカツってのをお願いしただけだ。」

 おばちゃんはさらに、目も剥いた。

「こぉの馬鹿息子がっ! サカリまくってんじゃないよっ!」

「あれは俺のオンナだろ? どう抱こうが、俺の勝手だ。」

「この、ケダモノが! 獣だった頃のほうが、まだましだね。」

「ふん、何とでも言え。今夜こそあの女を抱く。」

「無理だね。今夜はバイトのある日なんだよ。」

「昼も働いて、夜まで働いてるのか?」

 クロは何気なく部屋を見回す。しっかりとしたつくりは、家賃にも反映されていることだろう。リビングと、066の為の個室。それに、この寝室。部屋数から言っても、贅沢すぎる。

「もっと家賃の安いところにすれば、そこまで無理することはないだろうに……意外と見栄っ張りなオンナなんだな。」

「あの子がわざわざ別室で寝ている理由を聞いたかい?」

「ああ、仕事で早いから?」

「そんなのは、私に気を使わせないための言い訳さ。もしものとき私が隠れるために、わざわざ部屋数が多いところを選んでくれたんだよ、あの子は。」

「そうか。そういう女なのか。」

 クロの表情が、ふわっと緩んだ。指先に残る微かな感触に頬を寄せる。

黒犬おまえがどんな想いだったのか、知ったことじゃない。少なくとも現在おれは……)

……狂わされているんじゃない。惹かれているんだ。


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