③
真夜中、自分の上にのしかかる熱を感じて、サクラは目を覚ました。
「ふん、わざわざお前だけ別部屋ってのは、誘ってるのか?」
「ち、違うっ! 仕事で、起きる時間が早いから……」
あわてて押しのけようとする腕を、その男はやすやすと捕まえる。
「まさか、もう次の男がいるのか?」
「そんな訳ないでしょ!」
「じゃあ、いいじゃないか。子供まで成した仲なんだし。」
サクラを組み敷いたクロは、その首筋に唇を近づけた。
「やめて!」
「獣じゃない俺じゃ、満足できない、か。」
「違う、そういうわけじゃなくて……」
声だけは、甘く低く、懐かしい熱を運んでくるのに……柔らかく首筋に伝う唇の感触は、切ないほど不恰好な大きな口吻とは違う。まるで知らない男のものだ。
「自分で言うのもなんだがな、犬だった頃とはカタチも、オオキサも違う。楽しめると思うぞ。」
熱い劣情の唇が、薄い首の皮に強く吸い付く。
拒絶の涙がサクラの頬を伝い落ちた。
「お願い……やめて……」
「!」
唇が離れる。クロは身を起こし、憎々しげに鼻先に皺を寄せた。
「泣くほど……なのか?」
長い指の生えた人間のオトコの手が、その涙に伸ばされる。女はびくりと、再びの拒絶に震えた。
「怯えないでくれ。もう、何もしない。」
それでもその瞳は、恐怖と拒絶に震え、なす術も無く自分を組み敷いた男を見上げている。
男はがしがしと耳の後ろをかきむしった。
「何もしないって言っているだろう!」
ベッドから乱暴にシーツが引き剥がされる。微かな月明かりが白い布地に透けた。
クロはそれをぐるりとサクラの体に巻きつけ、その上から細い体をきゅうと、強く抱きしめる。シーツ越しの体温は微かに高く、サクラに懐かしい熱を運んだ。
あの黒犬と変らない、低く優しい声が耳元で囁く。
「本当は……お前に会うのも楽しみにしていたんだぞ。犬だった俺を、子供まで産むほどに愛してくれたオンナだ。なのに……」
間違いようの無い、いとおしい漆黒の瞳。劣情と愛情の狭間に揺れながら潤む夜の色……
「クロは……帰ってこないから……会えると思わなかったから……」
ふるりと熱に浮かされながら思わず漏らしたサクラの言葉が、その漆黒に暗く影さした。「……賢明だな。お前が愛したあの黒犬は、もう帰ってはこない。」
力強い抱擁が色あせるように、彼の腕は抱きしめるための力を失う。
「クロ!」
指先が離れ、優しさが漆黒の中にまぎれる。
「……スリーワンだ。」
男はシーツの塊を手放し、部屋を出て行った。
布団の中まで差し込む太陽が、クロの眠りを取り上げた。
「サクラ……か。」
シーツ越しの体温を、まだ指先が覚えている。
……あれは、確かに『劣情』だった……
欲望のままに、ただカラダだけを渇望した。理性を焼ききるほどの熱に浮かされ、あのオンナの部屋へ押し入った。
(犬だった俺は……)
やっぱり、狂わされていたんだろうか……花のように匂う体は、抗いがたい欲情でオトコの本能に熱を与える。
(酷い抱き方をしたに決まっている。)
記憶をなくした今となっては、『サクラ』の愛し方すら覚えてはいない。だが、実験動物として生を受けたことまで忘れたわけではない。もちろん、『兵器』としての訓練を受けたことも……
(そんな俺が、真っ当に誰かを好きになれるわけが無い。)
二度寝の入り口で鬱々と惑う想いは、跳ね上げられた布団と共に吹き飛んだ。
「いつまで寝ているつもりだい!」
エプロン姿のチンパンジーが、前歯を剥く。
「あの女は?」
「とっくの昔に仕事に出かけたさ。」
ばさばさと布団をたたみながら、おばちゃんは息子に繰言をぶつける。
「夕べは何をやらかしたんだい! あの子は泣き腫らした顔で起きてきたよ。」
「ああ、フウフセイカツってのをお願いしただけだ。」
おばちゃんはさらに、目も剥いた。
「こぉの馬鹿息子がっ! サカリまくってんじゃないよっ!」
「あれは俺のオンナだろ? どう抱こうが、俺の勝手だ。」
「この、ケダモノが! 獣だった頃のほうが、まだましだね。」
「ふん、何とでも言え。今夜こそあの女を抱く。」
「無理だね。今夜はバイトのある日なんだよ。」
「昼も働いて、夜まで働いてるのか?」
クロは何気なく部屋を見回す。しっかりとしたつくりは、家賃にも反映されていることだろう。リビングと、066の為の個室。それに、この寝室。部屋数から言っても、贅沢すぎる。
「もっと家賃の安いところにすれば、そこまで無理することはないだろうに……意外と見栄っ張りなオンナなんだな。」
「あの子がわざわざ別室で寝ている理由を聞いたかい?」
「ああ、仕事で早いから?」
「そんなのは、私に気を使わせないための言い訳さ。もしものとき私が隠れるために、わざわざ部屋数が多いところを選んでくれたんだよ、あの子は。」
「そうか。そういう女なのか。」
クロの表情が、ふわっと緩んだ。指先に残る微かな感触に頬を寄せる。
(黒犬がどんな想いだったのか、知ったことじゃない。少なくとも現在は……)
……狂わされているんじゃない。惹かれているんだ。




