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 クロから抜け落ちたのは『サクラに出会った後』の記憶だけらしい。

 その証拠に、サクラのアパートについた彼は、気安い声をあげた。

「なんだ、066。こんなところにいたのか。」

「その声……」

 おばちゃんがぶるぶると体を振るわせる。

「馬鹿息子?」

「馬鹿は余計だって。」

 プフンと鼻を鳴らす様は、まさしくあの黒犬だ。

「サクラちゃんっ! 良かったねぇっ!」

 しかし、ウメを抱いたサクラは、悲しそうに首を振る。

「サクラ? ああ、こいつの名前か。」

 歯茎までむき出すほどに、チンパンジーが目を剥いた。

「あんた、本当に馬鹿になったのかい?」

「ひどい言われようだな。何が起こったか、一通りの説明は聞いたぞ。どうやってあの島を出たのか、全てをな。」

「サクラちゃんのことはっ?」

「ああ、俺の子供を生んだ女がいるってのは聞いた。だから、子供に会うのを楽しみにしていたんだ。」

「サクラちゃんのことは!」

「うう? 思ったよりいい女だ。」

「……あんたは、『スリーワン』に戻ってしまったんだね。」

「戻るも何も、俺ははじめからスリーワンだ。『クロ』ってのは、こいつが勝手につけた名前だろ。」

 その男は、未だ警戒を解こうとしないサクラに向かって手を伸ばす。

「なあ、ここまでついてきたんだ。俺の子供、抱かせてくれよ。」

 奪うようにしてウメの小さな体を腕の中に収めると、彼は相好を崩した。

「やっぱり、俺に似て可愛いな。」

 確かに、こうして顔を並べれば、ウメは人型になったクロによく似ている。

「なまえは?」

「ウ・メれしゅ。」

「センスない名前だな。誰がつけたんだよ。」

「あんただよっ!」

 噛み付くようなおばちゃんの言葉にも、蕩けた顔は動じない。

「そっかー、ごめんな、ウメ。俺は犬だったから、その程度しか思いつかなかったんだろうなぁ。今ならもっと、人間っぽい名前をつけてやるのにな。」

 デロデロになった男の顔に、小さな手のひらが触れた。

「父ちゃ?」

「なあ、聞いた、父ちゃんだってよ! 俺が父ちゃんだって解るのか! この子、天才じゃないか?」

 おおはしゃぎする姿に、あの黒犬を見たような気がして、サクラは語調を和らげた。

「ウメに会いに来たのね。」

「いや、ウメを迎えに来たんだ。」

 その言葉が部屋の空気を凍りつかせる。口調は何気ないのに、冷たい言葉だ。

「ウメをどうするつもり?」

「『島』に連れて帰って、俺が育てる。俺の子供だからな。」

「そんな事!」

「あんたにとっても悪い話じゃないだろう。見た目は人間だが、上着一枚脱げば獣の子供だって証拠があるんだろ。」

 黒犬は息子のTシャツを少しめくり上げる。そこにびっしりと生えた質の粗い黒毛を認めると、彼はプフンと鼻を鳴らした。

「こいつを人間の中で育てるのは大変だろう。」

「それでも、私はウメを人間として育てたいの!」

「諦めろ。人間はシャカイの中で生きる生物だ。ガッコウへも行くようになる。恋だってするようになるだろう。そのとき、こいつは自分の体のことで悩むことになるんだぞ。」

 彼はサクラに近づき、クフンとその香りを吸った。

「あんたは、この匂いをつけたオトコのところへ行けば良い。『犬』の嫁になるよりそっちのほうが真っ当だろう。」

「彼とは別れたわ。」

「次のオトコを探せば良い。あんたは若いし、それに……」

 サクラを見つめる漆黒の眼差しが、微かに熱っぽく潤む。

「……すぐに見つかるだろう、次のオトコは。」

 それっきり、その男はウメを抱きしめ、サクラに背中を向けた。


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