②
クロから抜け落ちたのは『サクラに出会った後』の記憶だけらしい。
その証拠に、サクラのアパートについた彼は、気安い声をあげた。
「なんだ、066。こんなところにいたのか。」
「その声……」
おばちゃんがぶるぶると体を振るわせる。
「馬鹿息子?」
「馬鹿は余計だって。」
プフンと鼻を鳴らす様は、まさしくあの黒犬だ。
「サクラちゃんっ! 良かったねぇっ!」
しかし、ウメを抱いたサクラは、悲しそうに首を振る。
「サクラ? ああ、こいつの名前か。」
歯茎までむき出すほどに、チンパンジーが目を剥いた。
「あんた、本当に馬鹿になったのかい?」
「ひどい言われようだな。何が起こったか、一通りの説明は聞いたぞ。どうやってあの島を出たのか、全てをな。」
「サクラちゃんのことはっ?」
「ああ、俺の子供を生んだ女がいるってのは聞いた。だから、子供に会うのを楽しみにしていたんだ。」
「サクラちゃんのことは!」
「うう? 思ったよりいい女だ。」
「……あんたは、『スリーワン』に戻ってしまったんだね。」
「戻るも何も、俺ははじめからスリーワンだ。『クロ』ってのは、こいつが勝手につけた名前だろ。」
その男は、未だ警戒を解こうとしないサクラに向かって手を伸ばす。
「なあ、ここまでついてきたんだ。俺の子供、抱かせてくれよ。」
奪うようにしてウメの小さな体を腕の中に収めると、彼は相好を崩した。
「やっぱり、俺に似て可愛いな。」
確かに、こうして顔を並べれば、ウメは人型になったクロによく似ている。
「なまえは?」
「ウ・メれしゅ。」
「センスない名前だな。誰がつけたんだよ。」
「あんただよっ!」
噛み付くようなおばちゃんの言葉にも、蕩けた顔は動じない。
「そっかー、ごめんな、ウメ。俺は犬だったから、その程度しか思いつかなかったんだろうなぁ。今ならもっと、人間っぽい名前をつけてやるのにな。」
デロデロになった男の顔に、小さな手のひらが触れた。
「父ちゃ?」
「なあ、聞いた、父ちゃんだってよ! 俺が父ちゃんだって解るのか! この子、天才じゃないか?」
おおはしゃぎする姿に、あの黒犬を見たような気がして、サクラは語調を和らげた。
「ウメに会いに来たのね。」
「いや、ウメを迎えに来たんだ。」
その言葉が部屋の空気を凍りつかせる。口調は何気ないのに、冷たい言葉だ。
「ウメをどうするつもり?」
「『島』に連れて帰って、俺が育てる。俺の子供だからな。」
「そんな事!」
「あんたにとっても悪い話じゃないだろう。見た目は人間だが、上着一枚脱げば獣の子供だって証拠があるんだろ。」
黒犬は息子のTシャツを少しめくり上げる。そこにびっしりと生えた質の粗い黒毛を認めると、彼はプフンと鼻を鳴らした。
「こいつを人間の中で育てるのは大変だろう。」
「それでも、私はウメを人間として育てたいの!」
「諦めろ。人間はシャカイの中で生きる生物だ。ガッコウへも行くようになる。恋だってするようになるだろう。そのとき、こいつは自分の体のことで悩むことになるんだぞ。」
彼はサクラに近づき、クフンとその香りを吸った。
「あんたは、この匂いをつけたオトコのところへ行けば良い。『犬』の嫁になるよりそっちのほうが真っ当だろう。」
「彼とは別れたわ。」
「次のオトコを探せば良い。あんたは若いし、それに……」
サクラを見つめる漆黒の眼差しが、微かに熱っぽく潤む。
「……すぐに見つかるだろう、次のオトコは。」
それっきり、その男はウメを抱きしめ、サクラに背中を向けた。




