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 凍るような寒さも和らぎ、南風を待つ季節になった。

 とがった冬芽を脱ぎ捨てた桜は、蕾を孕んで春を待つ。

 

 あの島を脱出してから三年。

……二度も引っ越したのに、

 いつも海に近い場所を選んでしまうのは、あの島に残った彼に少しでも近づきたいからだろうか。

 サクラは二歳になる息子を連れて、人気のない朝の海岸を散歩していた。

 人間ではない彼との間に生まれた息子……ウメは、それでも、人間と同じ姿で生まれてきた。父親の名残を残すのは、胸元と背中を覆う黒い被毛コートだけ。

 シングルマザーとしてウメを育てる彼女は、二人のオトコと付き合った。どちらもまじめな人で、「ウメの父親になる」と言ってくれた。だが、その特殊な体のことを明かすほどには、付き合いは長続きしなかった。

 つい先日、サクラは二人目のカレと別れたばかりだ。

 何も、ウメのことばかりが別れの原因ではない。都会のアパートに隠れ住みながらも、ウメの面倒を見てくれる義母のこともある。

 そのチンパンジーは、もう帰ってはこない息子の代わりに、サクラを支えてくれるオトコが現れることを望んでくれている。それでも、同じ痛みを抱えた義母を一人、あの島に帰すことを考えると切ない。

……でも、何より……

 サクラのカラダには、あの黒犬が刻み付けた熱が生き続けている。ほかのオトコと肌をすり合わせる瞬間、それは罪悪感となってサクラを苛め続けた。

「あんな想いをするなら、オトコなんてもういらないかも。」

 本当に欲しいたった一人のオトコは、もういないのだから……


 突然、サクラの前をちょろちょろと走り回るウメが立ち止まった。

「どうしたの?」

「あのね、呼んでるの。」

「何が?」

 まだ言葉つたない二歳児は、伝わらないことに焦れてサクラの手を引く。

「こっち、言うの。」

 岩場の影に導かれたサクラは、黒地に白を染め抜いた大きな海洋生物に『再会』した。

「おー、さすがダンナの息子。耳いいな。」

「ハチ!」

 シャチである彼は、広い海にまぎれて暮らすことを選んだと聞いている。

……なぜここに?

「あんたに、クリスマスプレゼントだ。」

「とっくの昔に終わったけど?」

「じゃあ、誕生日でも、お年玉でも何でもいい。ともかく、受けとんな。」

「何を?」

「何って……ダンナ、起きなよ。ついたぜ。」

 シャチの背中から起き上がった男の姿に、サクラは息を呑んだ。

 少しクセ掛かった黒髪をかきあげる男……日焼けしたカラダに、黒いTシャツを着ているのかと思ったのだが、それが懐かしい黒い毛並みだということがサクラをざわめかせる。

「……まさか?」

「『奇跡』ってやつだ。三年間、ゆっくりと変化し続けて、この姿に落ち着いた。」

 ジーパンだけで海岸に降り立った若い男は、上半身を覆う毛皮以外は全くの人間の姿だ。 それでも、筋肉質な体つきと、優しい目元に黒犬だった頃の面影がある。

「クロ!」

 駆け寄るサクラに向かって、懐かしい声が信じられない言葉で切りつけた。

「296、こいつは誰だ?」

「ダンナの女房と子供だよ。」

「へぇ、あんたが……」

 立ち尽くすサクラに、ハチは肩をすくめような動作を見せた。

「ご覧の通り、あんたに関する記憶がすっぽり消えちまってるんだ。そんなダンナはいらないって言うんなら、連れて帰るぜ?」

「嫌だ! 俺は花見するまでは帰らないからな!」

「はいはい。桜が咲き終わった頃に迎えに来てやるよ。」

「え、ちょっと……待って、ハチ!」

 シャチは身を翻して蒼い水の中に消えていった。


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