18
白く長い廊下にはもう、生き物の姿はほとんど無い。
時々すれ違う『人間』もシェルターを目指すことに必死で、サクラとクロの行く手を阻むものは居なかった。
「そんな泣きそうな顔をするな。ほら、何とも無いだろ?」
両肩の筋肉は不恰好に歪んだまま、それでも蠢いてはいない。
「それより、急ごう。時間が無い」
サクラの背中を押すクロのさらに背後から、聞きなれた、あのチンパンジーの声が響いた。
「そう思うんなら、おぶってあげなよ」
「おばちゃん? どうしてここに」
二人に駆け寄ったチンパンジーはにやりと笑う。
「あの程度の潜水艦、若い連中だけで十分さ」
「それにしたって、わざわざ戻ってくることはないだろう!」
「あんたねぇ、『育ての』とはいえ、母親だよ。出来の悪い息子のことが心配なのは当たり前だろう?」
「出来は……悪くないと思うぞ」
「悪いだろうよ! 何のためにそんなでかい図体をしているんだい? さっさと嫁さんを背負ってあげな!」
「でも、あんまり揺すると腹の子供が……」
「あんたら男が思うほど、女の体はヤワじゃないよ」
おばちゃんに手を引かれて、サクラは毛深い彼の背中に乗った。
「じゃあ、飛ばすぞ。しっかりつかまって居ろよ」
頷きながら顔を寄せると、幾度となく重ねあった肌の香りがサクラを包む。
「行くよ、馬鹿息子!」
「馬鹿は余計だ!」
走り出した背中の上で、サクラはつかの間の安堵にしがみついた。
ノアとの合流地点は近い。
しかし、曲がり角の手前でクロは立ち止まった。緊張で硬くなる筋肉の感触が背中のサクラにも不安を伝える。
「何やってんだい!」
「しっ!」
わめきたてるチンパンジーを黙らせて、クロは廊下の向こうに耳を向ける。何か重いものを引きずりながら近づいてくる足音が聞こえた。
「お前達は先に行け」
クロが軽く膝を折る。
おばちゃんに引きずり下ろされながら、サクラは小さく頭を振った。
「サクラ……」
聞き分けの悪い女房の額に、黒犬が額を擦り付ける。
「俺たちの子供を守ってくれ。それは、お前にしか出来ない!」
「でも、クロは?」
「俺は、お前の為に俺自身を守ればいいんだろう?」
「……! 待ってるから! 合流ポイントで、待ってるから!」
「ああ、絶対に行くからな。待っていてくれ」
おばちゃんが顔を背ける。深く寄せられた眉間のしわは、泣き顔を堪えているかのようだ。
クロは甘えるように耳の後ろでチンパンジーに擦り寄った。
「サクラを頼んだぞ、母さん」
「こんなときばかり母さん呼ばわりかい! ほんっとにあんたは可愛くないね!」
「育ての親に似たんだろうよ」
母親はますますしかめっ面になりながら、それでも口は気丈を装う。
「私も待っててあげるよ。さっさとあれを片付けておいで、馬鹿息子!」
「馬鹿は余計だって……」
プフンと鼻を鳴らしたクロがサクラのポケットに鼻先を突っ込む。
牙の間に挟まれて取り出された一本の薬瓶。茶色い遮光ビンの中で禍々しく揺れるその液体に貼られているラベルは……『D』!
「こんなこともあろうかと、くすねておいて正解だったな」
コトリとその瓶を置いたクロは、二人を鼻先で促した。
「走れ!」
サクラの足音が遠のくのを確かめた黒犬は大きく呼吸を乱し、だらりと舌を垂らす。
(始まったか……)
再び蠢き始めた背中の筋肉が皮膚の下で形を変えた。肉の裂ける嫌な音がはっきりと聞こえる。鮮血が辺りを汚し、クロは悲鳴をこらえて大きくのけぞった。
「ぐっ……」
黒い毛皮を突き破って肩に生えたものは、二本の人間の腕だ。
翅のように突き出した腕を軽く回し、掌を幾度か握ったり開いたり、未知の感覚を確かめる。
(むしろ都合がいいってやつだ)
しっかりと指を動かして『D』の瓶を拾い上げ、クロは振り向いた。
禍々しい足音は確実に近づいている。
前島の生臭い息遣いが聞こえた気がして、黒犬は顔をしかめた。