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ノーネームは腹部からの激しい出血に赤黒く染まりながら、よろよろと近づいてくる。
「損傷甚大。生命維持に問題発生」
サクラを見るまなざしに、禍々しい色がともっていた。
「種の存続を最優先。交配相手を確認」
がばっと広げられた五指がサクラに迫る。
だん!と床を蹴って跳ね上がったクロの牙が、骨ばった肘に深く食い込んだ。
「妨害者を確認。排除開始」
食らいつかれた痛みも、感情も、そして正気さえも感じられない声。
ノーネームは血潮に染まった腕ごとクロを振り上げた。そのまま狂気の勢いに任せて壁に打ち付ける。
「ぐうっ」
肺から逆流する空気にむせながら、大きな黒犬は固い床に叩き落された。
サクラは自動式拳銃を構える。安全装置をはずす指が、恐怖とためらいで震えた。
……生き物を撃つのは初めてだけど……
再びサクラに向かおうとするノーネームの背中にクロが噛りつく。
「残念だったな! サクラの腹には、もう俺の子供が入ってンだよ!」
「子供……を優先的に排除」
「くっそ! こいつ、壊れやがったな!」
失血でゆらりゆらりと揺れながら、ノーネームが放つ狂気の色はより濃くなってゆく。
「排除、排除、ハイジョ……」
背中に手を回しクロを掴みあげると、暴れる体を盾のように掲げてサクラとの間合いを詰めた。
(ダメ! このままじゃクロに当たっちゃう)
恐怖に押しつぶされそうになりながらも、サクラの指はもう震えてはいない。銃口が真っ直ぐにノーネームの眉間に向けられる。
(もっと、間合いを詰めて……)
美しい悪鬼は、もう手の届く距離まで迫っている。
(まだ! もっとこっちへ……)
男の胸板が覆いかぶさるようにサクラを襲い、クロは遥か後方へと投げ捨てられた。
サクラの手で引き金が引かれ、腕が発弾の反動で大きくぶれる。大きな銃声と共にノーネームの眉間は大きくはじけ、噴出した返り血が容赦なくサクラを汚した。
「サクラ!」
全身の筋肉をしならせてクロが跳ぶ。崩れ落ちるノーネームの真下に飛び込み、サクラを引き離す。
「損傷……甚……大……」
金茶の毛並みはゆっくりと崩れ落ち、自分が流した血の海に沈んだ。
「おい! サクラ、しっかりしろ!」
呆然と引き金に添えられていたサクラの指先に、震えが戻ってくる。
「死ん……だ?」
「ああ」
小さな震えはじわりと広がり、サクラの体中を支配する。
クロは小刻みに揺れる肩に顔を乗せた。
「血が……ついちゃうよ」
「いいんだよ! お前が血まみれるときは、俺も一緒に血まみれてやる」
サクラの口から嗚咽が漏れる。
「赤ちゃんは……無事?」
「ああ。ちゃんと守ってくれたな」
「うん」
「……ありがとう。がんばったな」
「うん」
「もう、立てるか?」
サクラはキュッと唇を引き結んで涙を止めた。
「大丈夫。行こう、クロ!」
だが、廊下はパニック状態だった。
実験動物だった獣達は本来の力のままに暴れまわる。人間達はシェルターを目指して逃げ惑うばかりだ。
「こっちは妊婦連れだ。もっと安全なルートを……」
サクラからパソコンを受け取ろうとしたクロの動きが、突然、固まる。肩が呼吸で大きく揺れ、だらしなく開いた口元からよだれが垂れ滴った。
「……そんな……」
うめく声には絶望が含まれている。
「まさか……クロ!」
サクラの目の前でクロの体が大きくきしみ、両肩の筋肉がおかしな形に歪んだ。
「サクラ……銃を構えろ」
首を振って後退さる彼女に、クロは大きな口の端をあげて笑って見せる。
「心配するな。俺を撃てって言うんじゃない」
前足でよだれを拭って、クロは尻尾をピンと立てた。
「強行突破する! しっかりついて来い」




