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翌日、黒犬は話好きのチンパンジーを訪ねる.
檻の中の彼女はくろと目を合わせるなり、にやりと笑った。
「あんた、子供ができたんだって? おまけに一撃必……」
「ううう……もしかして全員に伝わってんのか、その話」
「で? 今日はそんな話をしに来たんじゃないだろ」
「ああ、『操縦士』を用意してもらいたい」
蹄や肉球で不器用に凝り固まったほかの獣達とは違い、サルの指先は繊細な動きが可能だ。兵器としての利用価値は高い。
重火器の操作、簡単な工作作業、乗り物の操縦など、サル専用に組まれたカリキュラムがある。
「そうかい、いよいよかい。で、ヘリかい、船かい?」
「潜水艦だ。脱出を確実にするためにも、頭数は多いほうがいい」
とくに年経りであるがゆえ、このチンパンジーの腕前は確かだ。
「三日おくれ。若いサル連中に叩き込んでやるよ」
「頼んだぞ」
おばちゃんは檻の中から腕を延べて、クロのこわばった表情をぐいぐいと揉みほぐした。
「エコヒイキは良くないんだけどねえ。解ってるんだけどねえ……」
ぐいっと顔を引き寄せて、そっとささやく。
「母親として、一言だけ言っておくよ。あんたは、自分の幸せを守ることだけ考えな」
サクラの健康を保持する軽運動のため……クロと施設内をのんびりと歩き回る姿はデートのようにも見えるだろう。
だが、黒犬は油断無く鼻を動かし、あたりを測っている。
「そんな怖い顔をしていると、疑われるよ」
恋女房の不安に、鼻先に寄っていた深いしわが消えた。
「俺がどんな顔をしているかなんて、やつらには解らないだろう」
毛に覆われた表情にまで気を使ってくれる人間など……
「……デレている場合じゃないな」
鼻先が再びしわに沈む。
彼の優秀な頭脳の中には施設全ての見取り図が入っている。それでも、計画をより確実にするためには実地調査は必須だ。
「廊下が狭いな。人間どもを追い込むにはちょうどいい」
「ここに何があるの?」
「シェルターだ」
クロは爪でコツコツと壁を叩いた。
「脱出の際に邪魔になる人間たちをここに追い込む。その後で電気系統を遮断すれば、巨大な棺桶の出来上がりだ」
もちろん、ここにはドクターのように『買われた』人間も少しは居る。だが大方は前島に心酔し、自らここに来ることを志願した者だ。
「『買われた』人間たちには、この島のことを忘れることを条件に脱出のチャンスを与えた。だが……『D』を望むものたちは、この島から出すわけには行かない」
「その、『D』ってなんなの?」
「……前島が作り出した、悪夢の最高傑作……」
毛で覆われている鼻先に、さらに深い皺が寄る。
「戦時中のことだったそうだ。ある生体兵器を研究している施設がたった一人を残して全滅した……生き残った研究者の名前は『マエジマ』」
「戦時中って!」
「まだ遺伝子工学とか、DNAなんて言葉すら知られていない頃に、前島はすでに『生き物の設計図』を書き換えることを思いついていた。DNA鎖を一度分解し、再構築させる物質を作り出したんだ」
「それが……『D』……」
「前島は、自分の研究仲間たちに『D』を投与した。だが効果は安定せず、ランダムに書き換えられた遺伝子によってあるものはデキソコナイに、あるものはアミノ酸にまで分解されて、人の形をとどめたものは一人も居なかった。軍は前島を糾弾し、処刑しようとした。追い詰められた前島は自分に『D』を……」
「それで……前島は何になったの?」
「『化け物』だ」
立ち止まったサクラに黒い毛並みが寄せられる。
「いくら脱出困難な孤島とはいえ、ここのセキュリティは甘すぎると思わないか?」
背中の毛をわしゃっと掴む指が震えていた。
「脱出の際、最も厄介なセキュリティーは前島自身だ。ヤツは年をとらず、傷つきもしない」
だから何も恐れず、何かをためらうこともない。
前島こそが最強の『生物兵器』なのである。
「だが『D』は完成していない。成功例は過去にたった一度きりだ」
普通なら偶然とか、奇跡と呼ぶのだろう。
だが前島はたった一度の『成功』に固執し、条件を変えての実験を繰り返している。『生物兵器』の産出はその副産物であり、資金調達のための副業だ。
「あいつは『自分の遺伝子』と言う条件を加えることを思いついた。そのために作られたのが、あいつの遺伝情報を書き込まれたタイプMAEZIMAだ」
「クロは、タイプMAEZIMAだから、目をつけられているのね」
「そして、そんな俺が選んでしまったから、お前も狙われているんだ」
濡れた鼻先が優しくサクラに触れた。
「だから、俺がお前を守る」
「それじゃダメなの!」
驚いた顔を、細い手のひらがはさむように捕まえる。
「私、強くなるよ。自分のことぐらい、自分で守るよ。だからクロは、私の為にクロ自身を守って」
「お前は、どれだけ俺を甘やかすんだ!」
サクラを宥める不器用なキス。
「安心しろ。俺は全てを守ると決めたんだ。お前の幸せも、俺自身の幸せも……」
冷たく無機質な廊下の中で温かな体温は離れがたく、二人はいつまでも抱き合っていた。




