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検査室から出てきたドクターは眉間に深くしわを刻み、大きなため息をついた。
「おめでとう。ゴカイニンよ」
(ゴカイニン……ご解任、な訳が無いな。……ご懐妊だよな。やっぱり)
耳慣れない言葉にクロが小さく首を振る。
「それで、今は?」
「サクラちゃんの怪我も軽かったし、もちろん、お腹の子も無事よ」
「そうか……」
安堵とも、苦悩ともつかない大きなため息が二人の口から漏れた。
「ちゃんと避妊するように言ったはずよ」
「していたさ。細心の注意を払ってな」
「へえ、じゃ、あれは?」
クロがプイと顔を背ける。
「一回……だけだ」
「世間ではそういうの、『一発屋』っていうのよ」
ドクターは椅子に身を投げて天を仰いだ。
「軽はずみなことをしたものね」
「仕方ないだろ! 俺はどうしても……どうしてもサクラに全てを受け入れて欲しかった!」
「……その結果が、これよ」
クロは深い後悔に鼻先を下げる。
「……俺の子……だよな。やっぱり」
その言葉にドクターが目をむいた。
「私はっ! そういう責任逃れをするような男に育てたつもりはないわよ!」
「そういうつもりで言ったんじゃない!」
「大体があんた、自分がどんな生き物かわかってるの? まっとうな人間の子供なんか望めないわよ!」
「解ってるよ!」
「ここで子供なんか生んだら、前島におもちゃにされるのよ!」
「そんなこと、解ってんだよっ!」
「もし、ここから出ても、犬であるあんたが家族を養っていけるの!」
「解ってるって言ってんだろ!」
その怒鳴り合いを検査室のドアの影で聞きながら、サクラは泣いていた。
(少なくともクロは……)
優しい彼は喜んでくれると、どこかで微かに期待していたのかもしれない。
子供を……特に人間で無い彼との子供を生むということが、自分達だけの問題でないことは解っている。それでも……
そんな自分の甘さが今は憎い。
(ごめんね)
くるりと腹を撫でる。
まだ膨らんでもいないが、ここに彼を受け入れた熱が生命となって宿っていると思うと、何よりもいとおしい。
ひときわ大きなため息が検査室まで響き渡った。
「まあ、たきつけた私にも責任はある……か。でも、こんなつもりじゃなかったのよ」
ドクターは涙をこらえるように天井を睨む。
「私は、あんた達に幸せになってもらいたかっただけなの」
パタリと、一滴の涙が床に落ちた。
「三日間だけ……三日だけお別れの時間をあげるわ。覚悟を決めてらっしゃい」
真夜中、臍の隣に濡れた鼻先の感触を感じてサクラは目を覚ました。
布団にもぐりこんだクロが、小さな声で何かをつぶやいている。
「……俺が普通の親父なら、ただ『嬉しい』とだけ言ってやれたんだろうな」
遠慮がちに、だが確かに、鼻先がくるりと腹を撫でる。
「ありがとう。こんな俺のところに来てくれて……」
サクラは身動き一つしないで言葉を追っていた。
「……サクラは、俺のたった一つの奇跡だ。ここで、素体番号111として一生を終えるはずだった俺を、『クロ』というただの男に変えてしまった」
クロの声は優しく、低く、微かに響く。
「たわいも無い会話が楽しいとか、特別ではない明日が楽しみだとか……まだ顔さえ見ていないお前が、こんなにいとおしいとか……全てサクラが教えてくれた」
肉球を優しく腹に添えて、涙に揺れる声が近づく。
「お前に会いたい……だが、これ以上の奇跡を望むことは、俺には……」
それ以上の言葉は嗚咽に飲み込まれて聞こえない。
暖かい涙が腹の上に降りかかるのを感じながら、サクラは身じろぎすらできずに、ただ横たわっているだけだった……




