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(たまには優しい言葉をかけてやろう)
そう思って、いくつかの言葉を考えていたのに……サクラとクロの部屋を訪れたドクターは陰鬱とした空気に思わず怒声を上げた。
「男のくせに、いつまでうじうじしてるのよ!」
サクラは作業に出た後らしく、一人で大きなベッドを占拠しているクロは布団から顔すら出そうとはしない。
「ほうっておいてくれよ」
泣き枯れた声にも容赦せず、ドクターは布団をはいだ。
「ほっとけって言ってるだろ!」
布団を奪い返そうとするクロの首根っこが華奢な指に捕らえられた。
ドクターが怒鳴る。
「大事な人を手にかけたのは、あんただけじゃないのよ! でも私とは違う。あんたにはサクラちゃんがいるんでしょ!」
「あいつがいるから、悲しくないだろうってか? そんなわけが無いだろう」
「そうじゃなくて、つらいのは、あんただけじゃないでしょ! ちゃんとサクラちゃんのことも見てあげているの?」
「サクラ……」
……毎晩、背中を撫でてくれながら彼女は、いったいどんな表情をしていたんだろう。もしかして、泣いていたんじゃないだろうか。
「ドクター、サクラはどこにいる? あいつは、今、どんな顔をしている!」
「やっと、いつものあんたに戻ったわね」
ドクターはクロの頭を軽くはたいた。
「前島はいま、あんたの戦いをデータ化するのに夢中よ。しばらくは手出ししてこないと思うわ。少し気分転換でもしていらっしゃい」
「どこでだよ」
「私の権限で『運動』を申請しておいたわ」
「!」
「もちろん、サクラちゃんも一緒に」
小さい子をあやすようにクロの頭を撫でながら、ドクターは優しく微笑んだ。
「あの子に話さなくちゃいけないことがあるでしょ。本当にあの子との未来を望むなら」
「サクラとの……」
漆黒の瞳がくるりと輝いた。潤んだその表面は凪いで、強い決意に満ちている。
この黒犬が幸せを掴めるようにと、ドクターは祈らずにはいられなかった。
ガサ、と木の葉のなる音に驚いて足元の虫が羽音を立てる。緑は色濃く生い茂り、二人が歩く獣道を覆い隠さんばかりだ。
「サクラ、着いたぞ」
緑一色だった視界が大きく開け、真っ青な空がまぶしい光を投げる。そこは草に覆われた小さな広場。
中央に立つ一本の大きな老木が、あふれんばかりの濃緑の葉を天に広げている。
花は無くとも素性の知れる、艶がかった美しい樹皮。
「桜……?」
「サクラ、お前は本当に桜のようだ。美しい花で俺を惑わせる」
クロは太い幹にそっと鼻先を擦り付けた。
「かと思えば、こうして葉陰を作るように俺を優しく包み込む」
女体を思わせる滑らかな幹肌を、獣の鼻先がなまめかしくなぞる。
妖しげな色香にあふれたその光景をみていると……サクラは体のどこかが疼くのを感じた。
「サクラ、お前が見ているのは俺のこの『獣』の姿か? それとも『人間』の中身か?」
振り向いたクロの瞳は悲しい漆黒の……宵闇のような色をしていた。




