16
薄笑いを浮かべる前島は実験室ではなく、がらんとした鉄作りの部屋にクロを放り込んだ。
「今日は、今までの強化実験のおさらいみたいなものさ。難しいことじゃない」
モニター越しの声がスピーカーから響く。
鉄のコロシアムには、さらに一頭の獣が放り込まれた。
「イチ……ニ、ロク……」
サクラが『ちゃーちゃん』と呼ぶアフガンには、すでに理性の影はない。よだれを垂れ流し、落ち着き無く縦に首を振る姿は、ただの狂犬だ。
「前島……何をした……」
食いしばった奥歯の間からのつぶやきに気楽な声が答える。
「ごめん、ごめん。処置、間違っちゃってさぁ」
「俺にどうしろというんだ!」
「……殺して見せてよ。ここ数日の投薬の効果がでていれば、君には造作も無いことだろ?」
高貴でちょっと生意気な『弟分』だった面影は欠片もない。よだれを振りまきながら、アフガンがクロに飛び掛る。
兵器として完成されつつあるクロの筋肉は、残像だけ残して肉体を中空に跳ね上げた。
「126! 俺が解らないのか!」
「解るわけが無いよ。彼には『D』を投与した。遺伝子鎖が分解され、再構築される過程で『暴走』を起こしたんだ。どんな変化がおきるかは僕にも予測不能」
アフガンの茶色い体が一瞬悶え、べキッと嫌な音が響いた。ボリュームのある毛皮が大きく裂け、苦痛の叫びと血しぶきが辺りを彩る。
「う……」
異形へと堕ちる彼の咆哮からクロは顔を背けた。
むき出しになった肉が大きく蠢き、人間の腕が急速な成長をするように生える。
「こんな、成功例の無い薬を使いやがって!」
「何を言っているんだい。成功例は、いるだろ。たった一人」
顔は見えなくても、太った男のにやついた顔が思い浮かぶ。
「そして僕が、どんな体を手に入れたか、知っているんだろ?」
気高さを失った異形がじり、と迫る。
前島の言葉だけがのんびりと、やたら間延びして聞こえた。
「さあ、スリーワン。君の中にある『僕』を感じろ」
苦痛と狂気にだらしない咆哮をあげながらも、そのけだものは泣いている。
自らの肉体が裂かれ、別の生き物に変わってゆく痛みに対する『反応』だと解っていても、両目から流されるその涙にクロは思い切ることができない。
「俺を見ろ! 126!」
『それ』が振り向いた。涙にぬれた両目がクロを見つめる。
「そうだ、俺が解るな?」
次の瞬間、獣は背中に生えた両腕で哀れな黒犬をつかみ、高く掲げた。
「ぐ……」
もがく首に爪が食い込むほど締め上げながら、獣はまた一つ、大きな咆哮をあげる。
「ねぇ、そうしていると人間になった気がする? 後で報告してよ」
スピーカーから響く前島の声がクロを苛立たせた。
「スリーワン、僕と同じ『化け物』である君なら解るだろう? 自分が生き残るためにはどうすればいいのか、どこを攻撃するのが最も効率的なのか、『計算』しているはずだ」
『計算』かと言われれば、確かに計算だろう。クロがさっきから考えているのはサクラのこれからのことだけだった。
この施設でサクラの知り合いは数少ない。
『ちゃーちゃん』も数少ない知り合いの一人だ。彼が死ねばサクラは悲しむだろう。
……だが、今の狂った彼を生き残らせてどうなる? サクラをこの先も守るために生き残らなくてはならないのはどちらなのか!
クロは全身の筋肉をしならせて獣の腕から振りぬける。
「126!」
その冷たい口調が、クロ自身の心をも凍りつかせた。
「俺が何を考えているか解るな?」
だが獣はクロの威厳に逆らうように、無機質な叫びをあげ続けている。
「別に、許してもらおうとは思わない。……ただ、俺は生き残らなくちゃならん」
冷たく、より冷たく冷え切ってゆく心とは裏腹に、戦うための肉体は激しく熱をこもらせてゆく。
獣は大きく腕を振り上げ、クロに襲い掛かった。
「暴れるな」
今度は残像すらなかった。ほんの一瞬の沈黙の後、獣の背中から噴水のように血潮が噴出し、苦悶の咆哮が響き渡る。
むしりとられた腕は……トサリと鈍い音を立てて床に落ちた。
「あまり傷つけずに殺してやる」
牙を鮮血に染めて立つクロの瞳は、光すら宿さないほどの漆黒に包まれていた。
『ちゃーちゃん』とクロの顛末はサクラにも伝えられた。
部屋でクロを待ちながら彼女は、ただただ涙を流す。
(いけない。クロが帰ってくる)
グイと押し込むように涙をぬぐうが、泣きはらした顔は隠すことができない。
部屋に入ってきたクロはその泣き顔に尻尾を落とした。
「サクラ、俺は……」
彼はそれ以上の言葉を持っていなかった。サクラの涙を拭おうと前足を伸ばせば、まだ赤錆びた血の匂いがべったりと残っているような錯覚に囚われる。
大きな肉球のついたその足は押しとどめられ、震え……そして力なく、床に落ちた。
「サクラ、俺にはもう、お前に触れる資格が無い」
サクラはその言葉を否定しない。だからと言って肯定もせず、ただ、優しさだけを込めてクロを抱きしめる。
「いいよ、クロ。私がクロに触る。ずっと、こうしているから」
サクラの胸元に顔をうずめて、クロはポツリ、ポツリと言葉を紡いだ。
「あいつは、子供の頃から俺の後ばかりついて来て……鬱陶しかった」
「うん」
「口うるさいし、生意気だし……その癖、どこか抜けてて、憎めなくて……」
「うん」
ただ静かに頷くサクラの声を聴きながら、クロは涙を流す。
「俺が、あいつを……」
「クロ……」
「俺は……俺は……化け物だ!」
黒い毛皮に覆われた『化け物』が漆黒の瞳から流す涙は温かく、悲しいものだった。




