12
サクラが与えられた仕事は通路の簡単な掃き掃除だけだった。
作業を終えた彼女は話し好きのチンパンジーの檻にもたれかかって、長い『休憩』をとっている。
「ねえ、おばちゃん。『タイプなんとか』って、何?」
「あの子、まだあんたに言ってないのかい?」
「なにを?」
「あー、まあ、それがあの子の最大の悩みだからねぇ。私の口から勝手に言うわけにはいかないさ」
「……私、信用されてないのかなぁ」
おばちゃんは長い腕を伸ばして、檻の中からサクラの頭を撫でてやった。
「あの子が、あんたを『選んだ』話も聞いてないのかい?」
「選んだ? 私を?」
「交配のための候補は、他にもいたのさ。でも、あの子との相性ってものがあるだろ? それで、こう……電極を貼り付けて、写真を見せて、あの子の脳みその反応を調べたんだよ」
おばちゃんの手はさらに優しさを増して、サクラのとがった心をほぐしてゆく。
「あんたが選ばれてからのあの子は、面白かったよぉ。『選んでしまった責任は取る』とか言って、犬のクセに筋トレなんかしちゃってさぁ」
「うん、クロ、責任感強いもんね」
「あんたはバカな女だねぇ。責任感だけでそこまでするほど、男は優しくないよ」
からかいと、優しさのこもった手のひらが、軽くサクラの頭をはじいた。
「なんであんたを選んだのか、聞いてごらん。そのぐらいのことは答えてくれるさ」
プフッと、含み笑いが檻の中から聞こえた。
(夕飯までには帰るって言ったのに……)
部屋に運ばれたものは固いパンではなく、簡単な煮物と魚を中心とした人間らしい一食であった。だが、箸をつける気にはなれない。
サクラは膝を抱えて、ただひたすらにクロの帰りを待っていた。
(……クロ)
不吉な想像ばかりが静まり返った室内に満ちる。
サクラが不安感に憔悴しきったころ、彼はよろりと戻ってきた。
「先に食っていてよかったのに、冷めちゃっただろ」
彼の第一声が自分への気遣いであったことがサクラを甘くかき乱す。
「クロ、疲れたら、疲れたって言っていいんだよ。私には、言ってもいいんだよ」
首に細い腕を巻きつけて支えると、クロは軽くもたれかかってきた。
「確かに疲れた。けど、サクラがこうしてくれるとセロトニンが分泌される気がする」
「せろと?」
「セロトニン。幸福物質とも言われる脳内物質で、安らぎと癒しを……!……」
こっ恥ずかしいことを言っているのに気がついて、クロは軽く飛びのく。
「ちが……う。いや、違わないけど……一日中、変な薬を投与されて、体内の変化を実況させられていたから……そう、今日の俺は酔っ払いみたいなものだ! 気にするな」
その物質はサクラにも分泌されているのであろう。さっきまでの不安は、すっかり消えうせていた。
「じゃあ、酔っ払いついでに、答えてくれる?」
「酔っ払いだからな。何でも答えてやるぞ」
「なんで、私を選んだの?」
「選んだって! どこでその話を」
「おばちゃんから」
「ちいっ! 余計なことを」
クロが、前足で耳をかき始める。
「私には聞かせたくない?」
「ううう……お前の写真を見せられたとき、後ろに、桜の花が写っていた。この島にも一本だけ桜があって、俺の一番好きな花だが……あんなにいっぱいの桜は初めてだった」
「私じゃなくて、桜の花に反応したの?」
「そんなわけがあるか! ただ……その桜の下で……お前が、桜の下で……」
超高速で耳をかきむしる。
「お前が笑っていたからっ!」
言葉を吐き捨てて、クロは飛び上がるようにベッドに飛び込む。布団に納まりきらなかった尻尾が所在無く揺れていた。
「それだけ?」
隣に潜り込むサクラの温もりに、クロが顔を埋める。
「それだけだ。たったそれだけの理由で、お前は選ばれてしまった」
前足の肉球が、ためらいがちにサクラの手に重なった。
「だから、俺はお前の笑顔を守ろうと……もう一度、あんなふうに笑って欲しいと、心から願っている」
柔らかい手のひらが、ざらりと荒れた肉球をキュッと掴んだ。まるで何かを固く決意したように……




