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あああああ、喰らいたい。
あの男はダメだ。変な味がした。
こっちの女はうまそうだ。白くて、柔らかそうで、いい匂いがする。
ぶるぶる震えて恐怖の涙を流しているところなど、実に扇情的だ。
いや、あれは恐怖の涙ではないな。誰かのために泣いているのか?
……ワシノタメニ……
あの白い肌に牙を立て、全てを喰らい尽くしたい。あの涙の一滴にいたるまで、全てわしのものだ。
……ワシノ、マヤ……マヤ、マヤ!
獣の牙は大きく開け放たれたまま、止まった。
「マ……ヤ……」
荒い呼吸の中に混じる優しい声は、彼女の上に降り注ぐ。
「ア……ナ……タ?」
「ほひい。危うく自分の女房を食ってしまうところじゃったわい」
虎は、マヤの肩に顔をうずめて大きなため息を漏らした。
前島が何かを叫んでいる。
「リセイヲトリモドストハ、スバラシイ! ゼヒレポート……」
その声は遠い出来事のようだ。終焉がすぐそこに近寄っていることを、二人は感じている。
前島には聞こえないよう、彼はマヤの耳元に小さく言葉を吹き込む。
「約束してくれ。わしらの子供達に『未来』を取り戻す、とな」
「約束するわ。私は、永遠にあなたの妻だから」
「もう一度、あんたを抱きたかったな」
「わたしも、ずっと抱かれていたかった……」
寂しそうに笑いながら、彼はマヤの手の中にある銃口にゴチリと額を押し当てた。
「いやじゃなぁ。死ぬのは怖いのう」
臆病な彼らしく、全身をぶるぶると震わせて怯えるその姿に、マヤは笑う……いや、笑って見せた。
「いい男に生まれ変わったら、真っ先に会いに来なさいよ」
「わし、そういうのは信じておらんがのう」
「あら、私だって信じてないけどね」
彼も、毛に覆われた表情を精一杯ゆがめて、笑って見せる。
「じゃあな、マヤ。きっちり殺してくれよ。わしが、お前を愛しているうちに……」
◆◆◆
「彼を愛したことを後悔はしていないわ。体だけじゃなく、心まで抱かれた、たった一人のオトコだもの」
写真の中の『彼』に触れる指先が面影の中にある熱をなぞる。
「でも、私には覚悟が足りなかった。『実験動物』を愛する覚悟が、ね」
「クロ……」
隣に黒犬のいない不安感はひしとサクラに迫った。
思わず検査室のドアを見る視線をドクターの声がさえぎる。
「ごほうびだと思うならカラダだけでいい。さっさと抱かれてやって頂戴。それでもあの子は喜ぶでしょうね」
「ごほうび……なんかじゃ……」
サクラは戸惑いに立ち尽くす。
処置室の扉が開いた。
「採れたぞ。これでいいんだろ」
甘く低い声は鼓膜ではなく、サクラの心を直接揺らす。
……そして飢えさせる、心も、カラダも……
(この優しいクロが……)
……爪を振るう? 牙を突き立てる?
(そうだ、クロは……)
『訓練』で見た闘う姿が思い出される。
自分よりはるかに大きな生き物に飛び掛り、的確に急所をえぐる姿……血飛沫に濡れても生存を勝ち取るその体は『生物兵器』。
「どうした、サクラ?」
黒犬は不思議そうに首をかしげ、片耳をぴょこりと揺らした。
(……クロは……)
泉のほとりで贖罪のようにデキソコナイに身を寄せる、哀しいほどに優しい『獣』。
その心は純粋な慈愛でいつも包み込んでくれる。
「クロ」
「んん?」
わさっと毛の揺れる音を立てて尻尾が揺れる。
この優しい生き物に、いつか銃口を向ける日が来たら……
「できない! そんなこと!」
サクラがクロの太い首に縋りつく。
ぐっと脚を張ってその勢いを受け止めた黒犬は、鼻先をサクラの髪に摺り寄せた。
「サクラ?」
その狼狽の理由を黒犬は知らない。例え知らなくても、彼はサクラを甘やかす。
「どうした?」
甘い、甘い、ただ甘い……この男はどうしてこんなにも……
サクラは鼻先をくすぐる黒毛に顔を埋めた。深く、深く、ただ静かに……




