8
夫婦の形としては歪なものだったが、そこには確かな愛があった。
二人の形がぴったり寄り添うようになった頃、それは起こった。
「何のんきに、回診なんかしてるんだよ!」
マヤのところへ生意気な黒犬が駆け込んでくる。
「今日は『実験』だって知っているんだろ!」
「ええ、知ってるわ」
これまでも何回か、彼が『実験』に連れ出されることはあった。
だが疲れきってはいても、彼はいつでも無事に戻ってきた。
「今日は、『D』の実験だって知らないのかよ!」
黒犬の剣幕が、その異常を伝える。
マヤは実験室に向かって走り出していた。
「待てよ! 俺も行く!」
並んで走り出した黒犬の体をふと見下ろせば、固まりかけた返り血に塗れている。
「あんた、どうやって檻から出たの?」
「そこらにいる人間の手首を、二~三本食いちぎってやったら、後は楽勝だったぜ」
こともなげに言うその姿に不安の影を見て、マヤは慄然とした。
「そんなこと、うちの人は許さないわよ!」
「許すも許さないも、非常事態だ。あんた、その様子じゃ『D』について何も知らないな」
「何なのよ、その『D』って!」
「肉体を強化する、手っ取り早い方法って何だと思う?」
「え、運動と栄養のコントロール。他には……薬物による強化と外科手術かしら」
「もう一つある。遺伝子情報の書き換えだ」
「まさか!」
「オーバーテクノロジー過ぎるか? だが、現に俺たちはそうして作られた」
「それが『D』?」
「いや、『D』はもっと急性で、悪質な変化をもたらす。成功例は過去にたった一件しかない。『D』の唯一の成功例、それが……」
実験室の扉を開けながら、黒犬は呻くように吐き出した。
「前島だ!」
扉の中は、赤く染まった部屋だった。
研究者達は大きな爪で切り裂かれた肉片となって転がり、部屋の中に立っているものといえば大きな虎と、その牙に右腕を預けている……
「前島!」
怒りのこもったマヤの悲鳴に、前島は左手を軽く上げて応えた。
「やあ、ドクター。すまないが、ちょっと取り込み中でね」
前島の右手を食いちぎろうとしている『彼』の目には、あの優しい色は無い。本能のままに狩りを行う『捕食者』だ。
「051、いくら理性をなくしても、解るだろう。そのぐらいじゃ僕は殺せない」
虎は幾度か口元を動かしたが、首をかしげて前島から離れた。
破れた白衣はよだれに塗れてはいる。だがその下の皮膚には傷一つついていない。
虎はゆっくりと振り向き、蒼闇色の瞳でマヤを見た。
(違う。こんなの、彼じゃない)
そこには、彼女が愛したオトコは一片も残ってはいない。美しく、ただ残虐な獣が立っているだけだ。
【あんたは逃げろ!】
小声でささやいて飛び掛った小さな黒犬は、大きく弾き飛ばされ、
「ぎゃうん!」
壁に叩きつけられた。
大きな口から荒い息を吐く獣が、ゆっくりとマヤに歩み寄る。
「ドクター、これを使いなよ」
前島が、マヤの足元に銃を蹴りやった。
「ねえ、体の関係があった男を殺さなきゃならないって、どんな気分? もし生き残れたら、ぜひとも報告してよ」
マヤは震えながら銃を拾い上げる。
(解ってる。もうコレは彼じゃない。でも……)




