7
「『食う』って、ソッチの意味ね」
翌朝、裸のマヤを包むものは、夕べ熱を分け合ったオトコの豪奢な毛皮だった。
「ねえ、起きてよ」
揺り起こされた彼はアイスブルーの瞳を大きく見開き、飛びのき、額を地面にこすりつける。
「め、め、面目ない! 酔っていたとはいえ、とんでもない間違いを……」
「間違いなの?」
「いや、わし的には間違いではない……」
「じゃあ、いいじゃない。私的にも間違いじゃないし?」
彼の縞模様の尻尾がパタンと床を叩き、瞳は驚きに満ちてマヤを見る。
「それより着るもの! あんたがぼろぼろにしたんだから、どこかで調達してきなさいよ」
ほひほひと走り出した彼の尻尾が揺れている。
マヤは今まで他の誰にも抱いたことの無い、暖かい感情を感じた。
彼が愛してくれたのは、体だけではない。獣でありながら人間の男のように、マヤの全てを受け入れ、愛し、守ってくれた。
子供を生むための道具として扱われた日々よりも、よっぽど幸せな夫婦生活をくれる男
……そして、その深い愛情を惜しみなく誰にでも分け与える、この世で最も優しい獣……
回診のたびに思うのは、彼がいかに皆から慕われているかということだった。
今日も小さな子猫が三匹、彼にじゃれ付いている。
「親父しゃま~」
「ほひ、ほひ~。おひげは止めて。ああ、尻尾もダメえ~」
マヤは子猫を一匹ずつ抱き上げ、くるくると診察してから彼の背中に乗せてやった。
「『親父様』なんて呼ばせているのね」
「ああ、わしは年かさじゃからのぅ。ここの連中にしてみれば、親父みたいなもんじゃろうて」
「じゃあ、私も『お母様』って呼んでもらおうかしら」
軽い冗談のつもりだったのだが、返ってきた声は沈んだものだった。
「止めたがいい。『実験動物』の親になるなんて、つらいことのほうが多すぎる」
「まだ子供だったスリーワンに会ったのもこの頃だったわ。クソ生意気なチビ犬を彼は特に気にかけていて、自分の持つ知識と技術を全て教え与えようとしていた。そして、『未来』を掴むことを何よりも願っていたわ」
真夜中、キーをたたく軽やかな音でマヤは目覚めた。
大きなトラが、爪で器用にパソコンを繰っている。
「何やってるの?」
「あんたを抱いた後は、特に頭が冴えるんじゃ」
パソコンの画面には意味不明な記号が並んでいる。
「わしは頭脳派じゃからな。こっちのほうが得意なんじゃよ」
彼はくるりとマヤのほうに向き直り、体をすり寄せた。
「わしでは、人間の男のように指輪を贈ってやることもできない。だから、これはわしがあんたに贈ってやれる唯一のものじゃ」
「それは、プロポーズ?」
「そう受け取ってもらえれば、うれしいんじゃがな」
マヤは大きな肩にしがみつく。
「いいのか? わしは調子に乗るタイプじゃぞ」
「いいのよ。私も調子に乗るタイプなんだから」
トラは尻尾をそっと細い腰に回した。
「で、これは何?」
「いずれ、あんたの役に立つ。ここから出るときにな」
「出る……出られるの? ここから」
――ここにいる実験動物たちの間に、まことしやかに伝わっている噂がある。
前島が、いざというときのために極秘に作らせた脱出用の船が、この島のどこかに隠されている。彼らは期待を込めて、その船を『ノア』と呼ぶ――
「わしは、ずっとその船を捜しておる」
「ただの噂じゃないの?」
「噂で済ませるには、あまりにリアルすぎる話じゃからな。この施設は、各国の庇護を受けている。それは逆に標的にされてもおるということじゃ。いつ、何を理由に攻撃を受けてもおかしくはない」
「用心深い前島が、何の策も用意しないわけが無いわね」
「もちろん、シェルタ-が作られてはおるがな。何年も地下にもぐってやり過ごすなんぞ、あの男の性には合わんじゃろ」
長い尻尾が上着のすそからするりともぐりこむ。
「ちょっと、どこ触ってんのよ!」
「わしらは、獣には戻れない。人間にもなれない。それでも、一生『実験動物』でいるつもりは無い」
「そんなところ、やめて! 今日はもう……ぅあん……」
「特に子供達にはな、『自由』を教えてやりたいんじゃ。わしは親父様じゃからな」
「……そ……こ……は、まじめな話をしながら触るところじゃないでしょ!」
「ほひいいいっ」
「私も手伝うわよ。『お母様』なんだから!」
「つらいぞ。可愛がっている『子供』が実験に使われるのは」
「そのつらさに、ずっと耐えてきたのね。一人で……」
大きなあごを、細い手がそうっと撫でる。
「プロポーズの返事、ちゃんと言わなくちゃね……オーケーよ」
「人間のように『結婚』してはやれんぞ」
「ばかねぇ。獣のクセに、そこにこだわるの? 私が決めたんだから、私は死ぬまであなたの妻よ」
「死んでからは?」
「解ったわよ。死んでからも、あなたの妻でいてあげる」
「約束じゃぞ」
愛を受けた獣は満足そうに目を細めて、再び尻尾をマヤの中に差し入れてきた。
「あなたって、意外と独占欲が強いわね」
「そりゃあ、独占したくもなるじゃろ。こんないいオンナ」
マヤが艶っぽい笑み浮かべる。
「あなたが、いいオンナにしてくれたのよ」




