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白衣の男がいくつかのボタンを操作する。重々しく開いた扉の向こうは、鉄格子の並ぶ『監獄』。
だが、檻の中にいるのは実に様々な動物達だ。幾種類ものサルや、大きな肉食のネコ。さらに大きな、聳え立つような体躯の熊もいる。
まるで動物園のようだ。
……サクラに対する扱いも……
男たちは事務的な無表情を崩すことなく、彼女と黒犬を一番奥の檻に放り込んだ。
……ガン、ガコォオン!
鉄がぶつかり合う大げさな音がして、入り口は閉ざされる。
もはや泣き叫ぶことの無意味さを悟ったサクラは、コンクリートの床にぺたりと座り込んだ。崩れつけた手のひらに伝わる無機質な冷たさは、絶望だけを彼女に与える。
無情に遠ざかってゆく足音にさえ取り残されたサクラは、雑多な鳴き声のど真ん中で恐怖に震える身をぎゅっと縮めた。
「『にんげん』はもういない。いい加減に黙れ! サクラが……この女が怖がる」
よく通る低めの声が目の前にいるこの黒犬のものだとは未だに信じがたい。
だが粗末なベッドと、簡単に仕切られたトイレがあるだけの檻の中には『彼』と、そしてサクラしかいない。その事実に、受け入れがたいこの状況が現実であることを自覚するしかなかった。
「おい、お前……」
のそりと近寄る黒犬の姿に、サクラがびくりと震える。
「怖がらなくても……俺は……お前には……」
落ち着き無く首を振り、うろうろと逡巡していた黒犬は、サクラから少し離れてぱたりと座り込んだ。
「俺は絶対にここから動かない。お前には肉球一つ触れはしない。だから……頼む、怖がらないでくれ」
情けなく耳を伏せ、潰れてしまいそうなほど身を伏せた様は憐れで、とても恐怖を感じるようなものではない。
それでも、声までもを戸惑いに震わせて、『彼』はサクラに許しを請い願った。
「さっきはすまなかった。やつらを誤魔化すためとはいえ、あんなことを……」
向かいの檻から、細身のチンパンジーが唇をめくり上げて覗き込む。
「どんなことをしたんだい?」
「まっとうな犬なら、人間相手にしてはいけないようなことだ」
「それってつまり、交……」
「フリだけだっ! 俺にだって理性ぐらいはある」
「なんだい、オンナの前だからってカッコつけちゃってさ」
「カッコっ! なんか……」
毛のないサルの顔は表情豊かだ。ニヤニヤと笑っているのがはっきりと解る。
それに比べて、黒犬は……体と同じ黒い毛に覆われたその顔は、無表情にも見える。だが、その薄い耳の先は微かに紅潮していた。
その人間くさい反応にサクラはふっと小さく安堵を吐く。
「本当に、触らないのね」
「ああ。俺からは絶対に触れはしない」
チンパンジーが呆れ顔になった。
「だから、それがカッコつけてるって言うんだよ。あんたがそんなに我慢強いとは思えないんだけどねぇ」
「頼むから少し黙ってて……くっ! ください」
「はいはい」
黒犬の耳は、今や明らかに真っ赤だ。
「そんなに緊張しないで、お前も少し楽にするといい。ここにはマイクはない。ただし、監視カメラは幾つかあるからな。不審な動きはするなよ」
ちょこんと座りなおし、軽く緊張を解いたサクラの瞳から涙が流れ落ちた。
「なっ……」
黒犬が反射的に立ち上がる。
「触れないんじゃなかったのかい!」
「ぐっ、くううっ! 触れ……ない!」
どっかりと伏せなおした黒犬の声は、気遣いの優しさを含んでより甘く響いた。
「だから、泣かないでくれ」
「……教えて。ここはどこ? そして、私をここに閉じ込めたあいつは誰なの?」
一瞬、戸惑いの無言があった。だが、黒犬は覚悟を決めたように静かに話し出す。
「……ここがどこかって言われると、すまないが、日本近海の小さな島ってことしか俺は知らない。地図にも載っていないからな。そして、世界中の国が国家機密扱いでこの島を庇護している」
「そんなことが許されるの?」
「普通は許されないだろう。だが、あのデブ……前島 一樹にはそれを許してでも、国家が欲しがるだけの頭脳がある。あいつは生物工学の天才で、優秀な生物兵器の開発者だからな」
「なぜ、私なの。あいつのプロポーズを断ったから? 腹いせ?」
「違う。あいつは言っただろう、『断られることは解っていた』と。断ろうがオーケーしようが、お前がこの島に連れてこられることは決定事項だったんだ」
「だから、なぜ私なの!」
黒犬は、同じ質問を繰り返した彼女を責めたりはしなかった。ただ、言葉を選ぶように、ポツリ、ポツリと説明する。
「俺との、『遺伝子的相性』ってやつだ。より確実な実験結果のため、世界中から遺伝子サンプルが集められ、俺との交配効率の高い女が選ばれた。だけど、最終的にお前が選ばれたのは、半分は……」
黒犬の喉が苦しそうに、ぐう、と鳴る。
「……いや、全てが俺の責任だ」
きちんと体を起こして座りなおしたその犬は、前足を不恰好にまげて人間風の土下座をサクラに見せた。
「すまん! 俺が、全部の責任を取る! 俺の全てを捧げてお前を守る。だから……俺を信じてくれ、サクラ!」
……正直、『彼』に触れるのはまだ怖い。複数の男の目前で、無理やりに痴態を演じさせられた恥辱も、忘れることは出来ない。それでも他に頼るものさえいない今、どうせなら優しく響く、この声に縋ってしまいたい……
「あなた、名前は?」
「素体番号111(コード・スリーワン)だ」
「それって名まえじゃないでしょう?」
「じゃあ、呼びやすい名前を付けてくれ。できれば人間みたいなのがいい」
クルリとサクラを見上げる瞳は、大きな体からは考えられないほどに澄み切って可愛らしい。深い理性と、優しさを湛えて潤むその色は……
「クロ。クロで決定ね」
「それって、ちっとも人間らしく……ま、いいか」
『クロ』はワサワサと尻尾を振った。
普通の犬がするように。