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それは、短いフライトだった。
サクラは船倉から引きずり出され、いっそ『無』にも思えるほどに凪いだ海にぽつんと落とされた『島』をまざまざと見せ付けられた。
それはあまりにも絶望的な佇まいで、サクラは絶望に震えるしかない。
さっき飛び立ったばかりのヘリポートでは、醜く太った男がうそ臭い和やかさで戻ってきたヘリを出迎えた。
「楽しかったかい、脱出ごっこは?」
……踊らされていた!
体の両からを屈強な男に支えられ、絶望に膝つくことさえ許されない。
サクラはなすすべもなくエレベーターに乗せられた。随分と深く落ちてゆく中で、ただひたすらに『男』の名前だけを心で唱える。
(クロ……クロ……)
ゴゴンと止まったそこは、おそらくこの施設の最深部。天然の洞窟に手を加えたらしい地下室には、蒼い水をたたえる地底湖がある。
前島がオーバーに首をすくめ、両手をひらりとあげた。
「そういえば、君の彼氏はがけから飛び降りたんだよ。君の分のチップを持ってね。多分、君が死んだと思わせたかったんだろうなぁ」
「!」
サクラの膝ががくがくっと音を立てる。
「震えているの? なぜ? 後でぜひ、報告してよ。」
前島の言葉すら、サクラの耳には届かない。
彼女の瞳が映しているものは唯一つ、ざばりと地底湖にあがったシャチが牙の間に捕らえられた黒犬のぐったりとした姿だけ……
「クロ!」
ピクリとも動かない彼に、サクラの呼吸が止まった。
……まさか、死……
シャチがクロの体を湖岸に下ろす。
「ご苦労。296号」
ねぎらいの言葉すら拒絶するように、シャチは地底湖へと姿を消した。
肺から吐き出される海水に強くむせ返り、クロは体を起こす。
(ここは……)
かすむ視線の先にはおぞましい前島の笑顔。
そしてその背後に捕らえられているのは、二度と会うことは無いと覚悟した、逃がしたはずの彼女。
(サクラ!)
青ざめた顔で膝を震わせているその姿は尋常ではない。声を無くしてしまったかのように、唇の形だけが黒犬を呼ぶ。
何度も何度も、惚けたように……
(……サクラ……)
その名を呼んでしまいたくなる衝動を抑えて、クロは『犬のように』唸った。
「猿芝居を続ける気かい? 本当は、この計画を立てたのも、ウイルスをシステムに送り込んだのも、君なんだろ?」
前島の言葉に虚ろだったサクラの瞳が正気を取り戻す。
「クロは関係ない! 計画は、私が……」
「黙りなよ。実験動物」
前島はサクラの言葉をぴしゃりとさえぎった。
「君は本当に賢いよ、スリーワン。賢いからこそ、解るだろ? ここで、彼女と適合するのは、君だけじゃない」
前島は、脂肪で膨れた指の腹でサクラの頬をなぞる。
サクラが嫌悪感を顕にして顔を背ける姿に、クロは食いしばった牙の間から苦悩の唸声を漏らした。
(すまん、サクラ。ここまで来てばれるわけには……)
前島は、執拗にサクラに近づく。
「何なら、僕が飼ってあげてもいいんだよ。『愛玩動物』としてね」
白い頬をなめようとする生臭そうな舌使いに、クロの限界が訪れた。
「……触るな」
「はあ? 聞こえなかったな」
いまさら隠しても無駄なこと。クロは、ドスの効いた声で前島を恫喝する。
「触るな。それは、俺のオンナだ」
「やっぱり、完成品だったんだね、君は」
前島は太った腹を満足そうに揺らした。
「彼女が来てからの君は、ボロを出しすぎていたからね。いつ尻尾を出すか、楽しみにしていたんだよ」
「気づいていたのか」
「『仮説』をたてただけさ。僕はサイエンティストだからね。仮説を立てたら、実験と、観察を行う。そうして導き出された『結果』しか、僕は信じない」
「サクラを連れてきたのは、そのためか」
「そっちの実験は、ついで。あくまでもメインは、『交配』さ。どうする? ノーネームにまわしてもいいんだけど」
クロは、恐怖に打ち震えるサクラを見た。彼女のすがりつくような瞳は、黒犬の姿だけを映している。
「俺がやる。その代わり、彼女は人間だ。落ち着いて交接できる環境を整えろ」
「馬鹿だなあ、オンナなんて所詮メスだよ。引き倒して、突きまくって、どんなところでも啼けるように調教すればいいじゃないか」
「そんな真似ができるか!」
「そう? 僕はいつでもそうしているけどね」
「お前なんかと一緒にするな」
その怒りを、前島は醜く口元をゆがめてあざ笑った。
「本当は、君だってそうだろう? なにしろ、君は僕の……」
クロの怒号が辺りを震わせる。
「一緒にするな!」
情けも、容赦も、そして優しささえも無いクロの語気は、サクラの両肩をも震わせた。
前島だけが、おどけた言葉でそれを受け流す。
「怖い、怖い。君にこれ以上嫌われたくないからね。二人っきりになれる部屋を用意してあげるよ。せいぜい励んでくれよ?」
胸の悪くなるような高笑いが洞内に響いた。




