20
クロがたった一つ望んだこと……それはただ静かに身を寄せ合って眠ることだった。
狭いベッドの上で浅く絡んだ温もりが、クロを深くまで満たす。
「俺は、ただの犬に生まれたかった。そうすれば、余計なことなんか考えもしないで、こうやってお前の側で毎晩眠れる」
「じゃあ、クロも一緒にここを出よう。そうすれば、一緒にいられる」
黒犬は顔を上げて前足の中の女を見た。
その体からは発情の淫らな匂いではなく、優しさで心潤すサクラ本来の香りが上る。そこに深く沈みこむように、クロの鼻先がサクラの髪に寄せられた。
「一緒には……行けない」
「ここで、ずっと一人で泣いて暮らすの?」
……彼は、この優しい心を前島に踏みにじられ、『訓練』で望まぬ殺戮を強いられ、ぼろぼろになるまでただ『実験動物』としてここで暮らして行くつもりなのだろうか。
「そんな顔をするな。俺のことは心配しなくて良い」
不安に皺よったサクラの眉間を大きな舌がべろりと舐めた。
「ここには仲間がいる。連中と協力して、いつか俺も必ずここを出る」
「その時は、会いに来て。待っているから」
サクラの腕がクロの首をキュッと掻き抱く。
黒犬は堪らず、ゴツリと骨ばった不器用な前足に力を込めた。
「俺のことなんか、待つな。むしろ、忘れてくれた方が良い。ただ遠くからで良い、お前が幸せに笑う顔を……人間としての幸せを手に入れたお前を見たい」
サクラの腕にも力がこもる。
「忘れない。忘れてなんかあげないから、必ず会いに来て」
「ならば、せめて覚えていてくれ。俺は、お前を……」
たった一言……肝心なその一言を言葉にすることは出来ず、彼は胸のうちだけでそっとつぶやいた。
(……愛している。)
夜があたりを静寂に変えてゆく。
静かによどみ行く闇の底で、二人はお互いの温もりをただ重ねて、眠った。
檻の前に立ったアフガンは緊張に震えている。
「『学習』ということにしておきました」
努めて平静を装うが微かに上ずった声。
檻からのそりと出てきた黒犬は、それとは対照的に妙に落ち着いた様子だった。
「ヘリは?」
「さっき、到着を確認しました。けれど、スリーワン……」
「そんなに心配そうな顔をするな。うまくやるさ」
彼はサクラを連れて歩き出す。
先導するアフガンはドア横にあるセンサーに肉球をつけた。鉄の扉は開かれる。
次々と開かれるドアを幾枚くぐっただろうか。クロは突然、前を歩くアフガンに飛びかかった。
「本気でやるぞ。後で恨むなよ」
カメラで映像だけ見れば、クロが一方的に暴れているように見えるだろう。
「恨んだりはしません。けれど、スリーワン。まさか死ぬ気じゃないでしょうね」
「死ぬ気は無い。安心しろ」
本気でやるといったとおり、クロは肺の空気を全て吐かせるほどに強く体を当てて彼の意識を奪う。薄れ行く意識の中で聞いた言葉はアフガンの胸に小さな不安を残した。
「……今まで、ありがとうな」
茶色の毛並みがどさりと床に伏すのを見届けて、黒犬が女の背中を鼻先で押す。
「サクラ、走れ!」
さっきの角を逆に曲がれば、そこは外につながる道だ。だが、そのためには……
「クロ、扉!」
「心配するな。やつらのシステムは、すでに掌握済みだ!」
ドクターのパソコンから送り込んだ時限式のウイルスは、既に動き出している。特殊な暗号化を施したスクリプトは警備のためのシステムをダウンさせ、クロが書き込んだ情報を上書きするためのもの。この施設は既に乗っ取ったも同然だ。
クロは扉の隣にあるセンサーに肉球をかざし、やすやすとその扉を開いた。
「やつらは、すぐにかつけてくるはずだ。捕まったらそこで終わり。解るな?」
サクラは力強く頷いてみせる。
「よし、じゃあサクラ、走れ、全速力で!」
一人と一頭は、緑に覆われた明るい日差しの下へと走りだした。




