19
母体となるサクラへの『検査』は細密だ。
暇をもてあましたクロはデスクの下に潜り込み、ドクターのノートパソコンを器用に爪先で繰っていた。
検査室から出てきたドクターが非難の目でそれを覗き込む。
「あんたは、そんなことして、あいつらに気づかれても知らないわよ」
「ここはちょうど、カメラの死角になっている。ボロは出さないさ」
「自分を過信しすぎると、足元を掬われるわよ」
「それでも……もう少しなんだ」
「何をそんなに必死になっているの?」
「三日後に、ヘリが来る。そのヘリに、彼女をもぐりこませようと思っている」
断崖絶壁で隔離されたこの島は、物資の補給や人員の移動をヘリに頼ってる。それも、島内にはヘリを保有せず、運行も不定期という徹底振りだ。
このチャンスを逃したら次の当てはない。
「そのための時限式の爆弾を、やつらのシステムに貼り付けておいた」
「勘弁してよ。そのパソコンからだってばれたら、あたしが疑われるのよ」
「あんたに迷惑をかけるつもりはない。このパソコンは、たった今、俺が盗んだ」
サクラが検査着からの着替えを終えて出てきた。クロはパクンと画面を閉じる。
「別に協力してもらうつもりもない」
「頼まれてもしないわよ。私には『彼』との約束があるもの。私は何も見なかったし、知らなかった」
「それでいい」
ドクターがクルリと背を向ける。
クロはサクラの服の裾にパソコンを押し込んだ。
「最後に一つだけ。サクラの追跡チップは? あんたが埋め込んだんだろ?」
「それこそ勘弁してよ。私が手を貸したって、あいつらにバレちゃうでしょ」
そういいながらもドクターは振り向き、サクラの左耳に触れた。
「……あとは、自分で何とかしなさい」
「すまないな。あんたには……いろいろと感謝している」
黒犬は大きく口の端を上げて笑う。
そんな彼を見るドクターの目は、不安の色に沈んでいた。
夕食のパンを味気なく食みながら、サクラは黒犬から目を離せずにいた。
「ドクターとは随分と仲がいいのね」
「古くからの知り合いだからな」
「カラダのカンケイもあるし?」
「……」
これからここを出ようという自分には関係のないことだ。
でも……だからこそサクラは、この『男』の本心が知りたかった。黙り込んだ彼にすっと身を寄せる。
「ドクターとできたんだから、人間のメスがダメってわけじゃ……無いでしょ」
「ばっ! 何を考えている!」
サクラから強く香り立つ『メス』がクロの本能をあぶりだす。荒れ狂う『オス』を押さえ込むための理性は、既に焼き切れる寸前だ。
「私じゃ……クロのごほうびにはなれないかなぁ」
「ごほうび……余計な事を吹き込みやがったな!」
ぐる、と唸って向かいの檻を睨むが、チンパンジーはこちらに背を向けて知らんフリを決め込んでいる。
クロは耳の先を真っ赤に染めてうろうろと檻の中をめぐった。
「ダメだ! 絶対にダメだからな!」
もはやサクラが求めている男が誰なのかは明らかだ。
それはクロが何度も不埒な夢の中で願った瞬間。だが、目の前にあるのは決して願ってはいけない『現実』。
「俺がまだ子供だった頃、獣との交配実験のために2回、人間の女が連れてこられた。だけど、獣と人が番うなんて真っ当じゃない。実験は二回とも失敗した」
「その人たちは? まだここに居るの?」
「……『居た』だ」
クロがサクラに鼻先を寄せる。
「ニンゲンであるお前が獣を選ぶ訳がない。だからこそノーネームを選ぶのだと思っていた」
「あんな、機械みたいな男はいや!」
「俺だって『兵器』だぞ」
「ううん。クロはこんなに暖かい」
サクラの腕が毛深い首に回された。牙の間から吐息が切なく漏れる。
「サクラ、俺は……お前が欲しい」
長い口吻がするりと髪を撫で下ろす。
「だが俺では、お前に将来を約束してやれるわけじゃない。肉欲でお前を汚すことしか考えられない、愚かな獣だ」
「クロ、それでもいい。私は……」
「言うな!」
黒犬が鋭く吼えた。
今ならサクラは、望み焦がれた『たった一言』を言ってくれるかもしれない。だが、それを聞いた後で自分を抑える自信はない。
……何度も何度も、忘れられないほど深くに俺の標を刻みつけ、逃げられないほどの快楽を教え込み、その人間としての未来すら奪って、閉じ込めてしまいたい……
サクラの全てを喰らい尽くそうとする『劣情』という名の獣が、クロは何よりも怖かった。
「俺の大切な女は……実験動物にさせたりはしない。そう決めたんだ」
「大切な……女……」
「お前だ、サクラ」
クロの低い声は掠れ、サクラのすぐ耳元で甘く響く。
「俺が人間だったら決してお前を手放したりはしない。誰にも渡さない。だが……俺は獣だから……」
根元まで真っ赤に染まった耳が、誠実の証のようにサクラは感じた。
「せめて、お前の笑顔を守りたい」
「でも……それでも……私には、他にクロにあげる物がないもの」
ふふっとクロが優しい笑息を漏らす。
「じゃあ一つだけ、ごほうびをもらってもいいか?」




