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両手を張り、体を捩って逃げ出そうとするが、黒犬は容赦なく小柄な体に圧し掛かる。
「やだ、やだやだ!」
堂々たる体躯は、女の細腕ごときではびくともしない。全体重をかけて、組み敷かれては逃げ出すことすらかなわない。
「そうそう、彼にはたっぷりと催淫剤を投与してあるからね。もう、その気だよ。」
女の耳にはハフハフと荒い鼻息がかかる。
「!」
不快感に耐えかねて背けた頬に伝う涙を、黒犬の大きな舌が丁寧に拭った。
女の耳に流れ込む、耳障りのいい男声。
「安心しろ。フリだけだ」
「……!」
「声を出すな! この距離ならやつらのマイクも俺の声を拾えない。俺の言うとおりにしろ。イエスなら瞬き一回。ノーなら二回だ」
女はゆっくりと犬の顔を眺め、瞬きを一回だけした。犬は彼女の顔をしきりに匂うふりをして、その眼だけは女の瞬きに集中している。
こんな状況なのに……いや、こんな状況だからなのか、彼女はその瞳をとても美しいと思った。
黒目がちな、ウソの無い瞳がクルリと光る。
「お前、演技はできるか?」
瞬き二回。
「……男に抱かれた経験は?」
二回。
「チッ! 未通女かよ、めんどうな」
犬は女の耳元にぐっと顔を寄せる。
「お前、名前は?」
黒犬の熱い呼気が、女のどこか奥深くに沁み込む。無意識に吐き出される溜息に混じる声は、掠れた。
「……サクラ……」
「よしサクラ、しっかりと目を閉じて……好きな男のことでも考えていろ」
低く潜め、耳孔に直接流し込まれるその声も、甘く低く掠れていた。そして、なぜか僅かに、震えてもいた。
「サクラ……俺を……信じろ」
くすぐったさにも似た、だが、熱い感覚が体の隅々まで染み込んでくる。
(好きな人がいないときは……誰を想えばいいんだろう)
首元で『男』がささやいた。
「下着ぐらいは……脱いでもらうことになる。それは許してくれ。だが、お前を傷つけるようなことは何一つ……絶対にしない」
女は堪らず、目を開けてその男を見つめる。
黒い毛皮、長い口吻、立ち上がった耳。どうみてもただの黒犬にしか見えないのに、その瞳は理性と知性に輝き、深い優しさに黒く潤んでいる。
「頼む、俺を信じてくれ、サクラ」
縋りつくような囁きに心揺すられて、彼女は静かに目を閉じた。
『彼』の行為は紳士的だった。
遠慮がちに触れる肉球は優しく、耳元で囁く声は甘い。サクラが嫌がるようなことは決して施さず、それでいて、『やつら』を誤魔化すための嬌声を引き出す……。
切なげな吐息を漏らす女から黒犬が身を離す頃には、飼育ケースを覗きこんでた男たちは一人残らず、その獣じみた『行為』を信じた。
「もう……いいでしょ。家に帰して……」
涙混じりの声だったのは、けっして黒犬に辱められたせいなどではない。
『彼』はサクラを守ろうとするかのように黒い体をぴんと張り詰めて立っている。『観察者』達の視線を遮ろうと両足を踏ん張って立つその背中だけが、この部屋の中でサクラの頼みとなるたった一つのものであった。
サクラに不安と恐怖を与えるもの……そして、黒犬が最も警戒している男は、ぶよりと白く肥え太った体を揺らす。
「何回も説明させないでくれるかなぁ。交配実験だって言っただろ。最低でも十月十日はここに居てもらうよ」
「犬となんて無理に決まってるでしょ!」
「とことん頭が悪いよね。この説明も二度目だと思うんだけど……」
贅肉揺らす様がふてぶてしい。
「その111素体には、子犬のうちに遺伝子レベルでの処理を施してある。主に脳の発達と、伝達シナプシスの構造に関する部分を中心に、彼のDNA鎖の中に人間の遺伝子構造を……ああ、君には難しすぎるか」
「よくわからないけど、警察に行くから! 警察に行って、全てを……」
「へえ、どの国の警察に?」
「ど……の?」
サクラは戸惑いに言葉をためらう。
男はその様子がよほどお気に召したのだろう。酷薄そうな唇の端が大きくあがった。
「君をここに連れてくるのに、いくつの国が協力してくれたと思う? あんなプロポーズなんて、断られることは初めから計画のうちさ。僕だってそこまで世間知らずじゃあない。失恋に狂ったふりをして、各国のお偉いさん方にごねて見せて……くくくっ、僕のご機嫌を取ろうと彼らが右往左往する姿……見せてあげたかったよ」
「あんた、何者なの……」
「いずれ解るさ。君にはもう、ここで生きてゆくしか術はないのだからね」
「いや! 家に帰して!」
「楽しい生活になると思うよ。何しろ、『彼』との相性もいいみたいだ。獣相手に恥ずかしげもなくヨガって……」
黒犬は爆音のような咆哮をあげて、サクラに対する侮蔑をさえぎる。
「いやいや、おっかないカレシだね。まあせいぜい仲良くしてくれよ」
からからと空々しい笑い声が、醜い体を揺さぶった。