15
俺はドクターの診療室に逃げ込んだ。
取りあえずサクラに着るものを調達するためではあったのだが、先ほどのショックのせいか、着替えが終わってもサクラは検査室から出てこようとはしない。
「その怪我の治療も済ませちゃうわよ」
ドクターの前に傷口をかざすと、陽気な顔からざっと血の気が引いた。
「ひどい……随分深くまで刺さってるわね」
せめて大きな欠片を抜いてから走れば、ここまでではなかったかもしれない。
それでもあの瞬間、そんな余裕はとてもじゃないが無かった。
「もういっそ、『自分のオンナ』にしちゃえばいいじゃない」
「馬鹿いうな! それこそ奴らの思う壺じゃないか!」
「別に、孕ませろって言ってるわけじゃないわよ。子供じゃないんだから、避妊ぐらいは心得ているんでしょ」
「そういう問題じゃない。サクラには普通の『人間のオンナ』として幸せになってもらいたい。俺に……獣に陵辱されたなんて傷を、あいつに残すわけにはいかない」
もう何回も、それこそ毎晩のようにサクラを抱く夢を見る。切なく俺の名前を啼くオンナを、不埒な獣に堕としてゆく、甘美な夢……あれを見るたびに、どうしようもない罪悪感だけが寝覚めの俺を襲う。
「俺がせめてノーネームぐらい人間に近ければ……」
思わず呟けば、ドクターがぐいっと傷口を握った。痛みがびりっと俺を苛める。
「あんたアレが本当に人間に近いと思ってるの?」
「誰が見たって、ほぼ人間だろう。アレとサクラが並んでいても、何の不自然も無い。だが、俺がサクラと並んでみろ! どうしたって、『犬のオサンポ』にしか見えない」
「そう思うなら、あの子をノーネームに譲れば良いじゃない」
「そんな事が……」
拒絶の言葉を吐きかけて、俺はあることに思い当たった。
「そうか……仕方ないのかも……しれない」
時々サクラは抗いがたいほどに甘く匂う。鼻腔をくすぐり、脳天を揺らし、理性を削り取る貪欲なオンナの香り……オスを誘うメスの匂いだ。
もしそれが無意識に男を求めている徴だとしたら、俺は……
治療を終えたクロはドクターに借りた毛布を引きずって検査室の扉をくぐった。
薄暗い片隅に座ったサクラは、びくりと慄いて顔を上げる。
「ノーネームは部屋に戻されたそうだ」
差し出された毛布に白い手が伸びた。
「それでも、あんなことがあった後だ。今夜はここで寝れば良い」
「クロは?」
「俺は自分の檻に戻る。大丈夫だ、この部屋には誰も入れないようにする」
サクラの手が止まる。落ち着き無く視線を動かし、何かを言いかけて震える唇。
クロが溜息をついた。
「俺も一応、男だぞ」
大きく頭を振るその姿に、ざわっとしたイラつきが胃の腑を揺らす。
「……人間じゃないからな」
黒い毛に隠された自嘲は誰にも届きはしない。
クロはそっとサクラに歩み寄った。
「俺が触れても……怖くは無いか?」
差し出された包帯だらけの前足をサクラがキュッと掴む。
「ごめんね、クロ。こんなになって……」
「別にお前が悪いわけじゃないだろう。謝ることは何も無い」
それでもぷわっと瞳の上に膨らんだ涙の珠を見て、クロは慌てた。
「泣くな。本当に大したことは無い」
サクラがクロの首に腕を回し、鼻先を埋めるように抱きつく。
「クロ……怖かった」
「もう大丈夫だ。俺がいる。俺は……お前を怖がらせるようなことはしない」
男の鼻先を女の匂いが、ふわっとくすぐる。
それは、情欲を呼び起こす淫らなメスの匂いではなく、静かにクロを満たす『いとおしいオンナ』の香りだった。
(サクラ、側に居たい)
前足を伸ばして彼女を抱き寄せようとするが、硬い犬の関節は不器用にしか動くことはできず……それは肩を挟んだだけの、不恰好な抱擁であった。