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ここに来てからシャワーしか使わせてもらっていない。
だから、夕食の片付けに訪れたアフガンの言葉はサクラにとって何よりも嬉しいものであった。
「入浴の許可が出ました」
「入浴? シャワーじゃなくて?」
「ええ、スタッフ用の浴室の使用許可がでました。実験動物相手には過ぎたる処遇です。」
のそりと歩み寄った黒犬が、サクラの隣に立つ。
「ドクターの粋な計らいって奴だな。」
その単語にサクラの胸がちり、と焦げた。
「ドクターの……」
「どうした、行かないのか?」
檻の入り口に立って振り向く黒犬の無神経さがサクラを苛立たせる。
「行くわよ!」
少しとげの生えた言葉に黒犬はきょとんと首をかしげた。
それでも脱衣場に満たされた湯の匂いで肺が潤えば、浮かれた気持ちがサクラを満たす。浴場はさして大きいものではないが、暖かい湯をなみなみと張った湯船が何よりもうれしかった。
無邪気に服を脱ごうとするサクラの横でクロが小さくうめく。
「俺は……その……表で待ってるから」
「なんで? 一緒に入ればいいじゃない」
「それは! いや、それはいくらなんでもまずいだろ」
「洗ってあげるから。そのままじゃ、犬臭いよ」
「いいんだよ。俺は犬なんだから」
サクラがかがみこむと、脱ぎかけたブラウスから真っ白な胸元がこぼれた。
「おまえ! そんな無防備な格好をするな!」
「何でよ。別に欲情するわけじゃないんでしょ」
「しない……けど……」
嘘だ。この女が欲しくて仕方ない。湯気に暖められて脱衣所に満たされたサクラの匂い。肌蹴られ、すぐ鼻先まで寄せられた胸元……薄汚い獣性が欲深く全てを欲しがる。
「混浴は、さすがに……」
「何が混浴よ。人間のメス相手になんて、なんにも感じないんでしょ。犬なんだから」
彼を貶めるつもりなど無かった。だが言葉に生えたとげが大きく、鋭く伸びる。
そのとげは彼女自身をも傷つけ、心を絡めとった。
……痛みにも似た激しい劣情。
「私だって、犬相手に何か思うわけないし?」
サクラは無造作にブラウスを脱ぎ捨てる。
「ぐうっ!」
クロは大きく鼻先を上げ、その誘惑から逃れようと身のうちでもがいた。
「これでも……何も感じないんでしょ」
「……感じない。いいからさっさと入って来い」
求めていた相手に背中を向けられ、行き場をなくした熱がサクラに広がっていく。
「ばか。むっつり!」
わざと乱暴に足音を立てながら浴室に向かうサクラは、抑えられない苛立ちにとまどっていた。
そして、脱衣所に取り残された黒犬も……
「くそっ!」
かっと赤くなる耳を前足で押さえて床に崩れれば、扉の向こうから湯の音がやけに大きく聞こえる。
「サクラ……もし、許されるなら……」
……もし? 誰が許すなら?
(俺は犬だ。まっとうな犬は、人間にソンナコトを思ったりしない)
苦しい思考をさえぎるように、ドアの向こうでガラスが砕ける音が響いた。
「サクラ? どうした!」
返事の代わりに、悲鳴が上がる。クロは体当たりで浴室のドアを開けた。換気用の窓が床で砕けている。
そこから入り込んできた『人間』は裸身を縮込めるサクラを『認識』した。
「交配相手を確認」
浴室に飛び込んだクロはタイルに滑る四肢を踏ん張って、サクラをかばいこむように男の前に立ちはだかる。
(素体番号無し! 取りあえず、サクラをここから出さなくては……)
低く体勢を構える黒犬を気に留めることなく、男はばさりと上半身を脱ぎ捨てた。
「!」
人間そっくりの体に、異質な質感……Tシャツを着込んだような形に、上半身をふわふわした金茶の長毛が覆っている。
禍々しい色香を放つ光景にサクラが凍りついた。
「生殖のためのプロセスを開始」
抑揚のない声が浴室内に響く。
(生殖? ふざけるな!)
じゃりと肉球を切るガラスを踏んで、クロがノーネームに飛び掛った。ぐっと防御のために上がった腕を牙が鋭く穿つ。
「損傷計測」
傷口を覗き込むノーネームには目もくれず、クロは浴槽に飛び込んでサクラの体を押し上げた。湯に微かな赤が広がる。
「クロ、怪我!」
(いいから、行くぞ)
目で合図してサクラを走らせる。
「損傷軽微。行動に問題なし」
ノーネームが顔を上げたときには、二人は既に脱衣所を駆け抜けた後だった。
床に点々と血の跡が続く。
「接触失敗」
見送るノーネームの顔には、何の感情も浮かんではいなかった。