13
『運動』から戻った後のサクラはどこかよそよそしい。
クロは夕食を持ってきたアフガンにこそっと囁いた。
「俺、何かしでかしたのかなあ?」
「何かって……」
少し離れて座ったサクラはクロの背中にきょろりと視線を走らせるが、アフガンの確かめるような表情に気づくと罰が悪そうに俯いてしまう。
「あからさますぎるでしょう」
呆れきったため息と声音。クロはピクリと耳を震わせる。
「何が?」
「何がって……この際だからお聞きしますが、あなたはあのニンゲンと婚うおつもりなのですか?」
「まぐっ! そういう恥ずかしい言い方をするな」
「何と言いかえても構いませんがね、要するに交尾を……」
「すすすすする訳が無いだろう! サクラはニンゲンだぞっ?」
長い栗毛を揺らして殊更に大きなため息をつけば、少しばかりの頭痛を自覚する。
「なぜです。ここのメス犬たちなら、あなたが望めば喜んで体を差し出すでしょう。犬だけじゃない、メスであればどんな相手だって。何もわざわざニンゲンなど選ばなくても」
「相変わらずのニンゲン嫌いなんだな。」
黒犬は漆黒の瞳をふっと緩めた。
「解らなくはない。ここで育った俺たちは『ニンゲン』にいい思い出が無いからな。」
実験動物である彼らにとって、それは恐怖の対象でしかない。
過酷な訓練を施し、怪しげな薬剤を投与し、腹を捌き開く残忍な生き物だ。
「だがサクラは実験動物としてここに連れてこられた。いわば俺たち側の生き物だ。そんなに毛嫌いしないでやってくれ」
「だからといって、オアイテに選ぶあなたの感性は解りかねますが?」
「お前は意外に下品だな」
クロはちらりとサクラに視線を走らせた。
「そういうことをするつもりは本当に無い。俺だって犬とニンゲンの区別ぐらいはつくからな。ただ……」
サクラがふと振り向く。二人の瞳がかちりとぶつかった。
「うううう……」
ぱっとお互いに顔を背け、俯く姿に呆れを通り越して笑いが押し寄せる。
この気高い黒犬は己の耳が隠しようもないほどの赤に染まっていることに気づいているのだろうか。
「少しは自重してください。他の者に示しがつかない」
そして、あの人間の娘は気づいているのだろうか。賢さと力を兼ね備えたこの黒犬こそがこの施設の動物達を取り纏めるアルファだと言うことに……
「スル気が無いのは大いに結構。私はニンゲンなどあなたのお相手とは認めませんから」
「誰にも認めてもらおうとは思っていない」
鼻先を垂れた侘しげな姿に、アフガンは責めの言葉を見失う。
「……時に、前島は素体番号無しを解き放つつもりですよ」
この言葉は興奮剤としては効きすぎたようだ。
野生よりも冥い光が漆黒の瞳に灯る。
「目的は、やはり?」
「ええ、交配のためです。前島は『D』の完成のために……」
「その話はサクラに絶対に聞かせるな」
「なぜです? 自分の身を守るためにも、知っておくべきなのでは?」
「サクラは俺が守る。知らなくていいことまで知らせる必要はない」
堂々と胸を張った姿がかえって物悲しい。
「それでいいんですか? 誰からも認められず、彼女自身にもその思いを伝えることもなく、ただ守ると?」
「俺は犬だからな。飼い主のために尽くすものだろう?」
おどけた口調が哀れを誘った。
また一つ、思わず重なった視線に驚き、目を逸らす黒犬の姿は……
(こういうのを『ニンゲンくさい』と言うんでしょうね)
だが、それこそがこのアルファの魅力だ。こんな彼だからこそ付き従う価値がある。
「あなたがそう決めたのなら、それが群れの総意です」
アフガンは黒犬の足元に鼻先を垂れて、強く服従を誓った。