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長い廊下をサクラとクロの先に進みながら、アフガンハウンドは振り返りもせずに謝罪の言葉を漏らした。
「先ほどは失礼しました、スリーワン」
「何を……」
驚きを顕にするサクラをアフガンが嗜める。
「『普通』にしていてください! 本当に察しの悪い生き物ですね」
むっと不機嫌そうな顔をするサクラに、クロが横から声をかけた。
「心配するな。こいつは俺の弟分だ。彼に従っている演技を……」
ぷふっと堪えきれない笑いが黒犬の鼻先から漏れる。
「さっきのあれはひどかったぞ。大根もいいところだ」
初めて聞く彼の明るい笑い声にサクラの心がほんわりと緩む。
「で……、何が失礼だって?」
「アナタをデキソコナイ呼ばわりしたことです」
アフガンはよく理解している。本当に完成品なのは彼のほうであると言うことを。
自分には能力を隠し、ニンゲンどもを欺くと言う深慮が足りなかった。だからこそこうして前島の道具として使われる羽目になった。
そんな彼の落ち込みに、黒犬は敢えて気安い声で答えた。
「気にしてない。むしろ、ナイスフォローだ。何しろあの演技は……」
もしカメラが無かったら彼は笑い転げていたことだろう。ひく、ひくと口の端を動かすしぐさが人間臭くもある。
「どうでした、ノーネームは」
アフガンの言葉に、クロから笑いが消えた。
「ああ、驚いた。話には聞いていたが、あれほど人間に近い姿だとはな」
「『人間』、あなたはどうです? 交接の相手なら、『アレ』のほうが良いのではないですか」
「確かに顔は良かったけど……」
サクラは、冷たい笑顔を思い出す。美しい顔は笑顔の形に歪んではいたが、およそ感情と言うものが感じ取れなかった。
あの笑いに比べたら、表情すら隠すほどの毛に覆われたこの黒犬のほうが……
「?」
フイとあげられた漆黒の眼差し。
その瞳で見つめられると気持ちまでを見透かされそうで、サクラは軽く顔を背ける。
「スリーワン、あなただって人間なんかに、『そんな気』にすらなれないでしょうに……お気の毒です」
「う? ああ、まあ……な」
アフガンの言葉に今度はクロが顔を背けた。
全ての檻が寝静まった真夜中、クロはぐるぐると巡る思いに囚われて眠れずにいた。
(サクラ……)
そっと起き上がって、安らかな寝息を立てている女の顔を覗き込む。
保身のためでも良い、そこに真実が無くても構わない。あの瞬間、彼女は確かに言った。
――私の相手は、クロ以外考えられないから――
(それがどれほど嬉しかったか、お前は知らないだろうな)
先日の夜のように、そっと手のひらの横に前足を並べてみる。
明らかに異質な『腕』が並ぶ様は、クロの絶望をさらに広げるばかりだった。
(……俺がどれほどお前を欲しがっているのかも)
神サマが許さなかろうが、世間サマがどう思おうが知ったことではない。目の前にいるこの女を今すぐ抱きしめて、身を焦がす想いのままに自分のものにしてしまいたい。
だが、この情欲をサクラが知ったら、どう思うのだろうか。
(俺は、この世でただ一人、お前だけが怖い)
彼女の手の甲にそっと肉球を重ねる。寝息が僅かに揺らぐ。
その寝息が安心したように静まるのを確かめて、黒犬はただ、その花のような寝顔を眺めていた。