7.二度目の魔法
華やかな王都テュッレーの街なか、歓楽街のすみっこ。薄暗い細道でひとり桃色の惚れ薬を指先で摘んで、ノーナはもう一度深呼吸をした。
先週シルヴァに会った日は、彼に言われたとおり早めに帰って泥のように眠った。仕事は残っていたけど、人に指摘されるほど隈が濃いのは良くないな、と素直に思ったのだ。
ノーナの肌は白くて、皮膚も薄い。だからこそ血色が悪いと歩くゾンビのように見えているだろう。生まれ持った容姿はどうしようもないが、他人に不快感や恐怖を与えるのはノーナも本意ではない。
そうして翌日出勤すると、トゥルヌスさんが戻ってきていたのだ。おかげで仕事の負荷は減った……というか元通りだ。ひとりで全部やっていたときより遥かにいい。
無事ゾンビを脱出したノーナはその週末を目前にした日、久しぶりにトゥルヌスさんからお誘いを受けた。
「なんだかノーナ、可愛くなったね」
「え……そ、そんなこと」
「今夜、来られる? 仕事は適当に終わらせればいい。いつもの宿で待ってるから」
局長室での会話だ。金箔貼りの脚を持つ優美なテーブルに頬杖をつきながら、トゥルヌスさんは慣れた口調でノーナを褒め、誘った。
二人が逢瀬を重ねるのはテュッレーにいくつかある連れ込み宿のうちのひとつ。歓楽街の路地裏にあって、わりと綺麗。こっそりと火遊びを楽しむ貴族のあいだでも人気の宿らしい。
トゥルヌスさんはいつも先に馬車で到着して部屋を取り、ワインをゆったりと飲みながらノーナを待っている。ノーナは慌てて家に帰って身体の準備をして、慌てて宿まで駆けつけるのがルーティーンだ。
街なかに家があればここまで大変ではなかったと思うけど、街の外れに家を買ったことは後悔していない。それに彼と関係を持ちはじめた頃と比べて、会う頻度もかなり少なくなっていた。
家を出る前、ガラス瓶に入った惚れ薬が目に入る。あと四個。
二度めの効果は二時間。初回は大失敗してしまったが、今夜はこれ以上ないチャンスだ。
浮つく心に水をかけるように、ピークスに言われたことが頭をよぎる。虚しいと分かっていても、もし告白するとしても……惚れ薬を使ってトゥルヌスさんの気持ちが少しでもノーナに傾いてからにしたい。
自分の心の弱さが情けない。けれど、誰かをあっさりと失うのはもう嫌だった。
歓楽街の中でも薄暗い小道に入って、ポケットから薬を取り出す。効果てきめんなのはもう分かっているため、緊張と期待で心臓がぴょんぴょん飛び跳ねる。
ノーナに恋したトゥルヌスさんは、どんな風に抱いてくれるだろう。今までとまったく違ったら……それはそれで切ないけれど。
ひと月前のシルヴァがすごく情熱的だったから、トゥルヌスさんもきっと……。そう考えた瞬間ハッとして、ノーナは頭をぶんぶん振った。抱かれた相手を比べるなんて、すごく奔放な人みたいだ!
気持ちを切り替えて、何度か深呼吸をする。飲み込むのが大変なことはもう学習済みである。
口の中に唾液を溜め、コロンとした薬を口に含んで一気に飲み込んだ。甘さが舌先から口内に広がって、本当に飴みたいだ。
うぐ……と声を出しかけて、口を押さえた。やっぱり喉の奥に詰まる。
でもこれはほんの少しのあいだのことで、数秒待てばスゥッと溶けていくのだ。それこそ魔法みたいに。
心臓の音は先ほどよりも重く響き、耳元で拍動が聞こえるようだ。ノーナはひとりごとでさえ発してしまわないように気をつけながら、通りに戻って宿に向かった。
休息日前日の歓楽街は、人通りがとても多い。もう酒に酔っている人もいてみんな楽しそうだ。ノーナは自分の目的に後ろめたさを感じ、うつむき加減で歩みを進める。
自分のようなトロい人種がそうするとどうなるか……想像できればよかったのだが、このときのノーナは惚れ薬のことで頭がいっぱいだった。
宿のある路地裏に入ろうと方向転換したとき、――ドンッと人にぶつかった。
「あっ、す……」
すみません。と言おうとして口をつぐむ。普通なら謝るべき場面だけど、いま声を掛けると魔法がかかってしまう。
(あぶな! あぶな〜!! 今のは、セーフだよね?)
「……またお前か」
ノーナは「エ〜ッ!」と内心大声を上げつつ、正面の大きな男……シルヴァを見上げた。なんでこんなところに、と気が遠くなるものの、彼も私服だから普通に非番なのだろう。
路地裏に入ると一気に怪しげな雰囲気が漂うが、手前のここには飲食店や劇場が立ち並んでいる。シルヴァはたくさん飲めそうな体格をしているし、誰かと酒を飲んできたのかもしれなかった。
いちおう顔見知り程度にはなっているのだから、一言二言交わすべきなのは分かっている。でも今は、だめだ。
サァっと顔から血の気が引いていくのを感じながら、ノーナは一歩後ずさる。しかしまた後ろを歩く人とぶつかりそうになってしまい、シルヴァに腕を引かれた。
「あっ」
「どうしてノーナはそんなに……注意力散漫なんだ? もっと周囲に気を配った方がいい」
ノーナは必死にコクコクと頷き、ペコリと頭を下げた。勢いで黒髪がバサバサと動く。シルヴァに違和感を持たれる前にこの場を去らないといけない。
そのままさり気なくまわれ右をし、今度こそ周囲を確認しながらノーナは目的地へと歩き出した。
人通りが少なくなったとたん、小走りになる。走って連れ込み宿に向かうなんて滑稽な姿だと思うけど、気持ち的には「危なかった〜!」と叫びながら全力疾走したいくらいだ。
まだ、声は出せない。
宿に入って受付をスルーし、階段を登る。どこの部屋にトゥルヌスさんがいるのかは、ドアノブに茶色のリボンを結びつけてあるからわかる。彼の目の色だ。
この習慣は彼が考えたものなのだが、じわじわとこの宿で浸透し、ときどき他の人も待ち合わせなのかドアノブにリボンを付けているのが可笑しかった。
しかしこの日はそのブームに悩まされる羽目となった。いくつも並ぶドアの二つに、茶色のリボンが結んであったのだ。
(えー……どっち!?)
間違えて違うドアを開けてしまったら大惨事だ。先ほどの緊張がまだ続いていて、気持ちが急いてしまう。
ノーナはなんとかリボンの材質や結び方からトゥルヌスさんらしさを見出そうと、ドアノブに顔を近づけて考える。そんな、端から見ればとても怪しい行動をしていたとき。
「何をしている!」
「えっ、いや! 違います!」
叱責するように声をかけられて、ノーナは飛び上がった。これは決して、不審者とかじゃないんです……ていうか……
ああーーーーー!!!!!
またやってしまった! 今度はだれ?
ノーナはびくびくと怯えながら声の主を確認しようとした。いや待って、声に聞き覚えが…………
階段のところから――さっき別れたはずのシルヴァが見ていた。
さすがに偶然じゃないだろう。でもどうして追いかけてきたのかわからない。あんぐりと口を開けたままでいると、彼はズンズン近づいてきてノーナの腕を握り、外へと導いた。
宿の外に出たところで立ち止まって、彼は複雑な表情でノーナを見つめる。
「ノーナは……どうしてこんなところに」
「あっ、えーと……」
「誰かとあそこで会う約束を?」
最悪だ……また、シルヴァに魔法がかかってしまったに違いない。彼は好きな人が連れ込み宿を訪れているのを見て、どう思っただろうか。
感情的になっているようには見えないけれど、ノーナは浮気が見つかったみたいに罪悪感で胸がいっぱいになった。
それに、あの部屋でトゥルヌスさんが待っているのに……どうしよう。自業自得すぎるが、ノーナは板挟みになってしまった。
なにもかも放りだして、強い酒をカッと煽りたい気分。びっくりボーナスは一度でいいのだ。わーだめだめ、現実逃避している場合じゃない。
「あの……ウィミナリス様。お察しの通り、僕はあそこで人と待ち合わせをしています。だから、行かせてください」
「俺も行く」
「えぇっ。そんな、会ってどうするんですか」
「決闘を申し込む」
瞬殺だよぉ……。
それに、魔法でノーナに惚れているシルヴァをトゥルヌスさんに会わせたら、シルヴァも男が好きなのだと勘違いされてしまうに違いない。それは彼にとって、絶対に良くない醜聞だ。
逆に今からこの人を置いて、予定通りトゥルヌスさんに会いに行ったとしても……もはやそんな気分になれる気がしなかった。
ああ、なんて自分勝手なんだろう。ノーナはなにか理由をつけて、今日の逢瀬は断らせてもらおうと決心する。
「とにかく、今日は断ってきますから……少し時間をください」
「ノーナは、俺のことが好きなんじゃなかったのか?」
「え……」
「俺が断ったから、もう次の男へ?」
「えーっと……」
そうか。騎士団本部の近くで会った日のノーナの言葉は、魔法と関係ないから覚えているのか。じゃぁ、ひと月前の記憶はどうなってる? もし残っていたとしたら、とてもおかしな記憶になっているはずだ。
いまの言動からシルヴァに何かを思い出したような混乱は読み取れない。魔法にかかっているあいだの記憶は、完全に消えている可能性が高かった。
ノーナは仕方なく頷く。眉間に皺を寄せているシルヴァは、つらさをこらえているようにも見える。胸は痛むけれど、ここで彼の幻の恋心に好きだと応えてしまう方が不誠実だろう。
不甲斐ない自分に嫌気が差して視線を合わせられず、唇を噛む。自分はいさぎよく諦めて、次の恋に進んだのだと説明するしかなかった。
落ち込むシルヴァを説得し、トゥルヌスさんにお断りしようとノーナはひとりで宿へと戻る。体調が悪いということにさせてもらおう。さすがにそんな状態でも抱かせろというような人じゃない。
……最近は嘘をついてばっかりだ。
ところが今度は、リボンの付いたドアノブが見つからずノーナは途方に暮れた。たぶん、ノーナが遅いから帰ってしまったのだろう。トゥルヌスさんは忙しい人だから、逢瀬のあとも宿に長居したことはない。
とぼとぼと元の場所へ戻り、シルヴァと合流する。大きな影は人の邪魔にならないよう、もう閉まっている店の軒下で立っていた。
姿勢が良くどこにいても目立つ彼は、ノーナの姿を見つけた瞬間ほんのわずかに頬をゆるませる。
――もう、戻ってこないと思っていたのかもしれない。
シルヴァは表情をあまり崩さないから、ノーナは胸に込み上げてくるものを抑えるのに必死になった。自分が彼に対して、柔らかい感情を持つ資格なんてない。




