13.最後の嘘
「私のせいにするな! 平民のお前が間違えたんだろう?」
「は、はい……すみません。とにかく書類の作り直しをお願いします」
「チッ、命令しやがって。さすが男好きは図太いな。おぉ、近づくなよ気持ち悪い」
「え……」
いつものように平身低頭で他局に訪れていたノーナは、相手の台詞にピクリと反応した。『男好き』……?
聞き間違いかと思って口を開けたまま、ポカンとしてしまう。ノーナが呆けて見上げていることに気付いた文官の男は、じっと顔を見つめてきてから吐き捨てるように言った。
「その顔で狼騎士を籠絡したんだって? 部屋を追い出すなんてよくやるよ」
(どういうこと? ……まさか)
局にいた他の文官も、じっとりと睨むようにノーナを見てくる。突き刺さるような視線が痛くて、言われたことをどうしても受け入れられなくて、ノーナは逃げ出すように部屋を出た。
貧血のようにフラフラと歩き、ひと気のない場所に移動してからノーナは頭を抱える。手に嫌な汗をかいていた。どうしよう……最悪だ。
自分の性的指向が職場で露呈するのはぜったいに嫌だと思っていた。恥ずかしいことだとは思っていないが、受け入れられる人のほうが少ないとわかっている。案の定、気持ち悪いと言われてしまった。
しかしその悲しみを覆い隠すほどの衝撃が、ノーナを襲う。
「狼騎士を籠絡した」と彼は言っていた。人目につくところでシルヴァと親しげに話したことさえないはずだが、すれ違う時に挨拶くらいはするし、経理局を訪れた彼がノーナを呼び出したところは同僚に見られている。
シルヴァが与えられている部屋にノーナが寝泊まりしていることも、気付いている者がいたっておかしくない。
視界が歪んで、吐き気がした。
自分が油断したせいだ。隠してはいたけれど、十分に慎重を期していたとはいいがたい。
でも、ふたりで会って話しただけでこんな噂になるものだろうか。仲のいい男同士で酒を飲んでそのまま泊まっていくということも、普通にある気がする。
それとも、ノーナとシルヴァの接点など元々ないことが怪しまれる原因になったのか……。『部屋を追い出した』って、シルヴァは元々あの生活感のない部屋に住んでいたということ?
ノーナが男しか愛せないことが、どの時点でわかったのか? シルヴァだって男が好きというわけじゃないはずだ。どうして籠絡されたなんて思われてしまったんだろう?
頭の中が疑問で埋めつくされ、混乱する。どうにかしなければと焦るのに、何をどうしたらいいのか全くわからない。
とにかくシルヴァが醜聞に巻き込まれてしまったことが問題だ。どう考えても、ノーナのせいだった。
恋をしたことで明るく彩られていた視界が、真っ黒に塗りつぶされていく。ノーナはしばらくがく然と立ち尽くしていた。
しかしこのままでいいはずがない。考えに考えて――ある決意をした。両手をきつく握りしめ、仕事に戻る。
「ノーナ、ちょっといいかな」
ノーナが局長室を訪れていたとき、座っていたトゥルヌスさんに引き止められた。両手を組んだ上にあごを乗せ、深刻そうな表情をしている。
「君のことで、悪い噂が立っている。私はもちろん、ノーナがそんなことをしないと分かっているが……あの騎士とはどういう関係なんだ?」
「……彼とはなんの関係もありません。ただ、偶然が重なっていくつか言葉を交わすようになっただけのことです」
「よかった。ノーナの気持ちが他に靡いたんじゃないかと心配していたんだ。君には私だけ、だろう?」
トゥルヌスさんは立っていたノーナの腰を引き寄せ、スルリと撫でてくる。以前なら、ノーナへの独占欲を感じる発言に喜んでいたかもしれない。
しかし今は違う。彼の性的な手つきに嫌悪感を感じてしまい、肌が粟立つ。ノーナは無理矢理身を引いた。
「局長、あなたには僕だけじゃないんですよね? もう二人で会うのはやめましょう」
「……知っていたのか。だが、ノーナ。私には君が必要なんだ……」
「やぁやぁやぁ! トゥルヌスくん婚約おめでとう! 玉の輿じゃないか……おっと」
二人の会話に突然の闖入者が現れ、局長室のドアを開けたとたんに爆弾を落とした。ちょっと太った文書管理局の局長は部屋の中にノーナもいたことに気づき、「あっ、あとにした方がいいかな? うん、あとにしよう」と独り言のように呟いてまたドアを閉じた。
また二人きりになり、ノーナはトゥルヌスさんの方へと向き直る。
「……おめでとうございます」
「ノーナ、どうか理解してほしい。私は貴族だから、子を成すのは義務なんだよ。でも男の方が楽……可愛いと思っている」
「トゥルヌス局長はご結婚される。僕にも好きな人ができました。もう、会えません」
「……そうか」
トゥルヌスさんが結婚するなんて、全く知らなかった。長らく好きだったのだから動揺くらいしてもいいと思うのだが、ノーナの心は凪いでいた。
ノーナの存在が彼の人生に少しも入り込めていなかったのは、とっくに分かっていたことだ。わずかに寂寥感はあるけれど、これできっぱりと別れられる。
二人のあいだに沈黙が落ちる。彼にとってはそうでなかったものの、この数年間、トゥルヌスさんの存在は確かにノーナの支えになっていた。
男性しか好きになれない自分のままでいていいのだと思えたのは彼のおかげだ。お世辞だとしても外見を褒めそやしてくれたのも嬉しかった。
万感の思いを込めて「今までありがとうございました」と頭を下げたノーナは、そのまま振り返らずに部屋を出た。
仕事はあるけど気分転換がしたくて、ノーナは自席に戻らず局を出る。窓のある廊下まで歩いていき空を見上げた。
秋特有の澄んだ青空。刷毛で描いたようなスジ状の雲が高い位置に浮かんでいて、遠くを見ているとスッキリとした気持ちになってくる。
いろいろと清算しなければならない今日にぴったりの空だ。
いつの間に、いったいどこから噂が広がったのか、トゥルヌスさんもシルヴァとの関係を疑っていた。女性ならまだしも、ノーナみたいな冴えない男に籠絡されたと噂されるなんて、シルヴァも心外だろう。
でもあの夜、キスをされたとき……シルヴァの心がコトリとこちらへ傾いたように思えた。
惚れ薬の効果が残っていなくとも、魔法がきっかけでシルヴァと距離を縮めることができた。軽蔑されたっておかしくないのにノーナを受け入れ、部屋にまで住まわせてくれた。
ノーナは初恋みたいに浮かれて、好き光線をたっぷりとシルヴァへ浴びせたのだ。初心なところのある彼は、その影響を受けてしまったに違いない。これは年上であるノーナの責任だった。
まだドミノの一端が倒れたに過ぎないから、軌道修正はできる。時間が経てば彼も冷静になるはずだ。やっぱり女性がいいと、彼も子を成さなければならないと気づいて、素敵な女性を選ぶだろう。
――もうノーナに、会わなければ。
その日の夕方、ノーナは細心の注意を払ってシルヴァの部屋へと向かった。休息日だけ自宅に滞在したものの、結局期待して王宮に戻ってきてしまっていたのだ。
ノーナは自分に甘い。その甘さが今回の事態を招いてしまったのだと、痛感せざるを得なかった。
広くて、王宮に見合った調度の置かれた部屋には、シルヴァのものがなにもない。本当に彼がここに住んでいたとは思えない反面、彼ならあり得るとも思う。
騎士道の教えのひとつに清貧があるが、貴族の多い騎士のあいだではすでに形骸化しているものだ。武功を立て、部屋を与えられれば贅沢しても良さそうなのに、自分に甘さを認めないのがシルヴァのすごいところだ。
なにもかもがノーナとは正反対の人。自分にはもったいないほどの人なのに、恋をしてしまった。自分にないものを持っているからこそ、惹かれたのだろう。
彼の部屋のところどころに生活感を持ち込んでいたノーナは、ベッドサイドに並べた木彫りの置き物を回収し、荷物をまとめた。
犬だと思って買った狼の置き物は、凛々しいのに目が可愛らしくてノーナのお気に入りだ。これを作った人も、伝説のような怖い狼を信じていなかったのかもしれない。
ふと、シルヴァが狼騎士と呼ばれていることを思い出して、くすりと笑みがこぼれる。
戦場での彼の戦いぶりはどんな風だろうか。さすがに見る機会は訪れないだろう。それどころかプライベートの彼も見てはいけないのだ。もう、彼には関わっちゃいけない。
ポタリと水滴が落ちてきて、木に染み込んだ。ノーナは慌てて手で払ったけど、狼の置き物には滲みが残っている。それに、次から次へと水が……涙が落ちてくるから、何度払っても追いつかなかった。
「っふ、う……」
ノーナは馬鹿だ。泣いたって仕方ないのに、この部屋への、シルヴァへの未練でこの場から動けなくなってしまった。
仕事も辞めなくてはいけない。ノーナがいる限り優しい彼は気遣ってくれるだろうし、その分噂も長引くだろう。
書面で提出して退職が認められるまで何日かかるのかは分からないが、明日にも提出しようと思っていた。
涙は止まらないものの、力を振りしぼって立ち上がる。バスルームで顔を洗ったら、自分の家に帰ろう。
ところが、ノーナが寝室を出て部屋に備え付けのバスルームに向かおうとしたとき、突然出入り口のドアが開いた。
「ノーナ!!」
「あっ、えーと、これは……っ……!」
視界が急に暗くなって――気づけばシルヴァの腕の中にいた。
自分の情けない顔をどう説明しようか、などと言い訳を考える暇もなくぎゅうぎゅう抱きしめられて、包み込まれる温かさをつかの間だけ味わう。
「噂を聞いたんだな? すまない……俺のせいだ」
「なに言ってるんですか、僕のせいですよ。――誑かして、すみません」
「違う! 俺は、本当に、ノーナのことを……あぁもう! とにかく、俺がなんとかする。俺に、守らせてほしい」
震える自分の声に説得力などないことは分かっていた。シルヴァのまっすぐな気持ちが嬉しいのに、苦しい。
彼に守ってもらえるなら、ノーナは幸せかもしれない。でも、シルヴァは?
うっかり男に恋心を抱いてしまった彼が、白い目を向けられながらノーナを守ろうとするなんて、本当に幸せなんだろうか。きっと夢から覚めたように、いつか後悔する日が来る。
シルヴァのように将来有望な青年が、いっときの感情で一生後ろ指を刺されるようなレッテルを貼られることを……なによりノーナが許せなかった。
「これから遠征なんだ。しばらく王都を離れることになるが……待っててくれないか?」
「……はい」
ノーナは嘘をついた。でもこれが、彼への最後の嘘だ。
そっと身体を引くと、シルヴァがすでに旅装に身を包んでいることがわかった。もう出立しなければならないのだろう。どこへ行くにせよ、遠征ならひと月以上彼は戻ってこない。その間にノーナは消えるつもりだった。
「ご武運を。遠くからあなたの健康と安全を祈っています」
「あぁ、ありがとう」
シルヴァと見つめ合う。
この深い緋色に、自分の緑色が映り込む瞬間が好きだった。表情の薄い彼が、ほんの少し感情を覗かせる瞬間が大好きだった。
必ず戻ってくる、とシルヴァはノーナに約束し去っていった。怪我ひとつなく、無事に戻ってきてほしい。
――ノーナのいない王宮へ。




