夜遅くに現れた魔女と、蜜が染みるハニーバタートースト
はじめまして。ご覧いただきありがとうございます。このお話は、異世界の片隅にある小さなパン屋を舞台にした、大きな事件の起きないのんびりとした日常譚です。夜眠る前や、日々の生活に少し疲れたときの息抜きに、焼き立てのパンの匂いを感じるような気持ちでゆったりと楽しんでいただければ幸いです。
夜がすっかり深まり、王都の灯りが一つ、また一つと消えていく。
アレンの店も、そろそろ今夜の営業を終える時間だった。看板の明かりを消そうとアレンが席を立った、その時。
カラン、と眠たげなドアの鐘の音が、静かな店内に響いた。
「……はぁ。まだ、やってるかしら……」
入ってきたのは、つばの広い大きな三角帽子をかぶった女性だった。
手には星の意匠が施された古い木製のほうきを携えている。一目で、夜空を駆ける魔女だと分かった。
だが、その端正な顔立ちはひどくやつれ、お気に入りの黒いローブも心なしか元気がなさそうに萎びている。一晩中、遠い街まで魔法の薬を届けに飛んでいた帰り道なのだろう。
「いらっしゃい。ちょうど片付けを始めるところでしたが、簡単なものならすぐ作れますよ」
「本当……? 助かるわ。もう、ほうきを握る魔力も残っていなくて……甘いもの、何かあるかしら」
魔女はカウンターの椅子に崩れるように座ると、机に突っ伏した。
「それなら、とっておきの手間なしがあります」
アレンは微笑むと、日中に焼いておいたシンプルな食パンを贅沢に厚切りにした。
それを窯の残り火でじっくりと色づくまで焼き上げる。表面がサクッと香ばしい狐色になったところで取り出し、ナイフで格子状に深く切れ目を入れた。
そこへ、冷たいバターを大きめに一塊。
余熱でバターがじゅわりと溶けて切れ目の奥深くへと染み込んでいく。仕上げに、森の密林で採れた黄金色の蜂蜜を、これでもかとたっぷりと回しかけた。
香ばしい小麦の匂いに、濃厚なバターのコクと、鼻の奥が痛くなるほど甘い蜂蜜の香りが混ざり合う。
「はい、お待たせしました。『ハニーバタートースト』です」
目の前に置かれたお皿から立ち上る凶悪なまでに甘い匂いに、魔女はハッと顔を上げた。
「な、何これ……なんて罪深い匂いかしら……」
彼女はフォークを持つのももどかしい様子で、手で直接トーストをちぎった。
指先へじゅわっと溢れ出すバターと蜂蜜を気にすることなく、大きな口で一口。
「――っ!」
サクッ、と小気味いい音が静かな店内に響く。
次の瞬間、彼女の身体がビクッと震えた。
口の中に広がったのは、圧倒的な糖分と、暴力的なまでのバターの旨味。噛み締めるたびに、じゅわじゅわと甘い蜜が溢れ出し、疲れ切った脳と身体に直接染み渡っていく。
「はぁ……。一晩中張り詰めていた頭が、この香ばしさと甘さで、もう何も考えられなくなっちゃう……」
魔女はとろけるような、だらしないほどの笑顔を浮かべ、頬を赤らめてトーストを頬張り続けた。
普段は高貴な魔女としてお堅く生きている彼女も、この路地裏の小さな灯りの下では、ただの甘いものが大好きな女の子に戻っていた。
最後の一口を名残惜しそうに飲み干し、アレンの入れた温かいミルクを飲み終える頃には、彼女の瞳にはパチパチと元気な魔力の光が戻っていた。
「ごちそうさま。なんだか、ここから国を半周くらい飛べそうな気分よ」
彼女はそう言って悪戯っぽく笑うと、カウンターにぴかぴかと光る小さな魔石を一枚置いて立ち上がった。
「お気をつけて、良い夜空の旅を」
「ええ、またね。優しいパン屋さん」
ドアが開くと、夜風と共に彼女はほうきに跨り、ふわりと夜空へ飛び去っていった。
彼女が去った後の路地裏には、ほうきの軌跡からこぼれ落ちた星の粉のような光が、きらきらと名残惜しそうに数秒だけ舞っていた。
アレンはそれを見送ると、今度こそ静かに店のドアの鍵を閉め、明日の仕込みのために小麦粉の袋へと手を伸ばすのだった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。夜空を飛ぶ高貴な魔女が、深夜の路地裏で甘いトーストに頭をからっぽにされてしまう、そんなひと幕を描いてみました。誰の素性も詮索しない、路地裏の小さなお店。またいつでも、焼き立ての匂いに誘われるようにはぐれてみてくださいね。それでは、どうぞ良い夢を。




