明日も、いつもの窯を開ける
はじめまして。ご覧いただきありがとうございます。このお話は、異世界の片隅にある小さなパン屋を舞台にした、大きな事件の起きないのんびりとした日常譚です。夜眠る前や、日々の生活に少し疲れたときの息抜きに、焼き立てのパンの匂いを感じるような気持ちでゆったりと楽しんでいただければ幸いです。
王都の東、大通りから三つほど角を曲がった路地裏に、アレンの店はある。
看板には、下手くそな文字で『アレンのパン屋』とだけ書かれていた。
まだ星が残る薄闇の中、アレンは窯に薪をくべる。パチパチと爆ぜる火の音が、静かな店内に響く。
彼には異世界を救うような魔法の才能もなければ、聖剣を抜くような運命もなかった。ただ、前世でパンを焼いていたという、それだけの記憶を持ってこの街に流れ着いた青年だ。
「よし、今日もいい具合だ」
ふっくらと膨らんだ小麦の生地を、慣れた手つきで丸めて窯へと送り込む。しばらくすると、香ばしい、甘やかな匂いが狭い店内に満ちていく。この匂いに包まれている時間が、アレンは一番好きだった。
朝日が路地裏に差し込む頃、ガラガラと扉が開く。
「よお、アレン。今日もいつものやつをくれ」
入ってきたのは、夜勤明けで目の下にクマを作った衛兵の男だ。
「おはようございます。ちょうど焼き上がったところですよ」
手渡した丸パンは、触ると火傷しそうなほど熱い。男はそれを待ちきれない様子で口に放り込み、「あちち」と言いながらも、ふにゃりと表情を緩めた。
「……生き返るな。お前のパンは、冷え切った体に一番効く」
特別な効果なんて何もない。ただの小麦と塩と水、それに少しの酵母で作った普通のパンだ。
それでも、男は満足そうに数枚の銅貨を置いて去っていく。
その後も、学校へ向かう子供が立ち寄り、夕方には小さな獲物を抱えた見習い冒険者がやってくる。劇的なことなんて何一つ起きない。世界を揺るがす危機も、王族からの招待状も、この店には無縁だ。
陽が落ちて、最後の客を送り出したアレンは、ほうきで床を掃きながらふと思った。
――明日もきっと、同じように朝が来て、同じようにパンを焼くのだろう。
それで十分だった。アレンは満足げに小さく息を吐くと、明日の仕込みのために小麦粉の袋へと手を伸ばした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。特別なことは起きない小さなお話ですが、焼き立ての丸パンのように、あなたの心が少しでもあたたまっていたら嬉しいです。次回は、人間の街に少し疲れてしまった『エルフの旅人』と、爽やかな香りの『オレンジブレッド』のお話をお届けする予定です。また気が向いたときに、ふらりと路地裏の店を覗きにきてくださいね。それでは、どうぞ良い夢を。




