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異世界恋愛短編集

婚約破棄された侯爵令嬢、辺境に嫁いだら刺繍の才能で付与術が開花して、冷徹騎士団長に溺愛されています

作者: 百鬼清風

 きらびやかなシャンデリアの光が降り注ぐ王城の大広間。

 舞踏会用に整えられたその場は、今日ばかりは笑顔と華やかさに満ちていた──ただ一人を除いて。


「アメリ・ド・ロシュフォール! お前との婚約は、今この場をもって破棄する!」


 王太子ギルベールの声が響き渡った瞬間、楽団の演奏が途切れ、ざわめきが広がる。

 煌めく宝石のように視線が集まり、令嬢たちは扇で口元を隠してくすくすと笑った。


 けれど当の本人──アメリは眉一つ動かさなかった。

 深紅のドレスの裾を持ち上げ、静かに一礼する。


「……そうですか」


 淡々とした返答に、逆に場が水を打ったように静まり返る。

 王太子の隣で得意げに腕を絡める伯爵令嬢クラリスが、勝ち誇った笑みを浮かべた。


「当然ですわ。王妃にふさわしいのは、この私ですもの!」


 拍手まで起こりかけた空気を、アメリの一言が切り裂いた。


「ただ一つ、確認させていただきますわ」


 彼女は真っ直ぐ王太子を見据える。

 声は澄んでいて、しかしよく通る。


「婚姻契約を一方的に破棄なさるということで間違いございませんか?」


 場にざわめきが戻る。

 “契約”という単語が舞踏会で飛び出すなど前代未聞だった。


「く、契約だと? そんなものは……」

「確かに、正式な婚約は文書で交わされています。王国の法典に基づくもので、違反した場合は違約金が発生するはずですが──」


 アメリは口元に薄く笑みを浮かべ、手元の扇をぱたりと閉じる。


「《契約違反には請求書が付きます》……ご存知なかったとは言わせませんわ」


 会場にどよめきが走った。

 侍従の一人が慌てて書類を確認しに走り、王太子の顔が見る見る赤く染まっていく。

 クラリスは「な、何を言っているの!」と喚き散らすが、その声は虚しく反響するばかり。


 アメリはゆっくりと頭を下げ、背筋を伸ばしたまま一歩退く。


「……以上で、わたくしの立場は明らかになったかと存じます。これ以上は無粋でしょう」


 毅然とした態度。怯むどころか、逆に舞踏会の視線をさらった。

 ざまあみろ──そう口にしなくとも、傍観者たちの心に痛快な響きが広がっていく。


 しかし、これで終わりではなかった。

 王家は表向きの体裁を取り繕うため、「アメリは辺境伯家に嫁ぐ」と発表したのだ。

 それは左遷であり、追放同然の処分であった。


「辺境……冷徹騎士団長の、妻に?」


 アメリは一瞬だけ瞳を伏せる。

 だがすぐに、その唇に微かな皮肉が浮かんだ。


「……ええ、上等ですわ。わたくしには、刺繍と知識と、少しばかりの運がありますもの」


 その凛とした声に、会場の空気が再び揺れる。

 王太子の勝ち誇った宣言は、もはや誰の心も掴んでいなかった。


 王都の喧噪が遠ざかっていく。

 豪奢だった馬車の内装も、今は簡素で居心地の悪いものに変わっていた。


「まさか……あのわたくしが、追放同然に嫁ぐなんてね」


 侯爵令嬢として育ったアメリ・ド・ロシュフォールは、窓の外の乾いた風景を眺めながら小さく笑った。

 隣には侍女の姿もない。送られたのは最低限の荷物と、この無骨な馬車だけ。



 途中の街道。

 馬車が急に止まり、御者の怒鳴り声が響いた。


「賊だ! 下がっておれ!」


 アメリが顔を上げた瞬間、馬車の扉が乱暴に開かれた。

 粗野な男たちが剣を構え、にやにやと笑っている。


「へぇ……王都からはぐれたお嬢様か。ちょっと値が付きそうだな」

「触らないでくださる? わたくし、《衛生管理》にはうるさいの」


 涼しい声に、賊の動きが一瞬止まった。

 次の瞬間──馬蹄の轟音と共に、重厚な鎧に身を包んだ騎士たちが現れる。


「そこまでだ」


 低く鋭い声。剣の光が閃き、あっという間に賊は斬り伏せられた。

 最後に前へ進み出たのは、一際大柄な男。

 銀灰色の髪に鋭い青の瞳──冷徹と噂される辺境伯領騎士団長、エドモン・ド・ヴァルクール。


「……あなたが、わたくしの夫になる方?」


 アメリの問いに、彼は短く頷いた。


「そうだ。君がアメリ・ド・ロシュフォールか」

「ええ。ただ、今のところは“厄介払いの荷物”と呼ばれておりますけれど」


 皮肉を込めた微笑みも、エドモンの表情は動かない。

 ただ「無事で良かった」とだけ呟き、彼は馬を翻した。



 砦への道中。

 騎士団は隊列を組み、アメリの馬車を護衛する。

 その厳しい規律と沈黙の空気に、アメリは思わず息を呑んだ。


「本当に……冷徹、という言葉そのものね」


 騎士団長は必要最低限の言葉しか発しない。

 世間話を振っても、「そうだな」「問題ない」と短く返すだけ。


 だがふとした瞬間、馬車の揺れでアメリが体を崩したとき、彼は即座に腕を伸ばして支えた。


「……怪我はないか」

「……ないわ。ありがとう、エドモン殿」


 その声には、無骨な優しさが滲んでいた。

 冷徹と言われながらも、ただの冷血ではない──アメリはそう感じ始める。



 夕暮れ時、砦に到着。

 石造りの重厚な壁、吹き荒ぶ寒風、鍛錬する騎士たちの声。

 王都の華やかさとは正反対の光景に、アメリは圧倒される。


「ここが……これからわたくしが暮らす場所なのね」


 侍女もいない彼女を出迎えたのは、粗野な騎士たちの視線だった。

 だがエドモンは彼らに冷たく言い放つ。


「これは我が妻だ。失礼のないように」


 短い言葉に、場の空気が凍り付く。

 次の瞬間、騎士たちは一斉に敬礼した。


 アメリはその光景を見ながら、心の奥で小さく呟いた。


「……冷徹、ね。でも少なくとも、軽んじてはいない」


 新たな生活の始まり。

 そこには厳しさと孤独、そして──まだ気づかぬ未来の光が潜んでいた。


 辺境の砦に迎えられてから数日。

 アメリ・ド・ロシュフォールは、慣れぬ石造りの部屋で孤独を味わっていた。


 豪奢なカーテンも、華やかな香油もない。

 あるのは粗末な寝具と、外の荒々しい風の音だけ。


「……退屈ね」


 ため息をつきながらも、アメリは小箱を開く。

 王都から持参した唯一の趣味道具──色糸と刺繍枠。

 幼い頃から針と糸を手に、静かに模様を描くのが好きだった。


 布に花を縫い取りながら、アメリは心を落ち着けていく。

 けれど、その刺繍がただの飾りではないことを、彼女自身もまだ知らなかった。



 その夜。

 たまたま砦を巡回していた騎士が、部屋の前を通りかかる。


「……ん? 光っている?」


 扉の隙間から、かすかな光が漏れていた。

 彼が扉を開けると、布に描かれた花模様が淡く輝いているのが見えた。


「な、なんだこれは……!」


 声に気づいたアメリが顔を上げる。


「……見られてしまったのね」

「お前、魔術師か!?」

「違いますわ。ただの……《刺繍好き》の令嬢です」


 慌てる騎士をよそに、アメリは縫い上げた布を持ち上げる。

 光はやがて消えたが、偶然その布を肩に掛けていた騎士の動きが軽くなった。


「体が……軽い? 傷の痛みも薄れたような……!」


 騎士の驚愕に、アメリも目を見開く。


「これって……付与術?」


 刺繍に込められた思いが、武具や人に“加護”を与える力になっていたのだ。



 翌日、噂は瞬く間に広がった。

 エドモンの耳にも届き、彼はアメリの部屋を訪ねる。


「昨夜の件は本当か」

「……偶然です。わたくしには魔力なんてありません」

「それでも、刺繍に力が宿ったのは事実だ」


 彼の声は低いが、真剣そのものだった。


「辺境は常に魔物と隣り合わせだ。武具を強化できる者がいるなら、それは兵の命を救う」

「つまり……わたくしに、刺繍を続けろと?」

「君にしかできない役割だ。無理強いはしない」


 無骨な言葉。

 けれどアメリの胸には、不思議な熱が灯った。


「……ならば、やってみましょう」

「助かる」


 短い会話。だがそれは、二人の関係を変える一歩となった。



 その日から、アメリは砦の作業部屋にこもり、騎士たちのマントや装備に刺繍を施した。


「奥さま、本当に力がある……!」

「剣が軽く感じるぞ!」


 兵たちが驚き、感謝の言葉を投げかける。

 アメリは針を進めながら、心の奥で小さく笑った。


「“辺境に追放された令嬢”のはずが……今では必要とされているなんて」


 その姿を陰から見ていたエドモンの瞳が、ほんの少し柔らかく揺れる。


「……悪くない」


 彼の呟きは、まだ誰にも聞かれていなかった。


 砦に来てからしばらくの時が過ぎた。

 アメリ・ド・ロシュフォールは、少しずつこの荒々しい土地の生活に馴染みつつあった。


 王都の舞踏会で磨いた礼儀作法は、この地では役に立たない。

 代わりに必要なのは、針と糸、帳簿と契約、そして……想像以上に素朴な生活の知恵。



「奥さま、こちらのマントにも刺繍をお願いできますか!」

「剣帯の縫い目が解けてしまって……」


 作業部屋には、次々と騎士たちがやって来る。

 アメリは色糸を選び、迷いなく針を動かす。


「慌てないで、一人ずつ順番に。糸は逃げませんから」


 針先が布をすくうたび、淡い光が走る。

 兵士たちの装備に小さな《加護》が宿ると、皆が目を輝かせた。


「動きが軽い!」

「肩の痛みが和らいだぞ!」


 その笑顔を見て、アメリの胸も温かくなる。

 王都では「不要」とされた自分の技が、ここでは命を守る力になる。


「……皮肉なものね」

「何か言ったか?」


 不意に背後から声がして振り向くと、エドモンが立っていた。

 大柄な体に騎士団長の威圧感。けれど彼の目は真剣で、冷たいだけではない。


「君の刺繍は、兵たちの支えになっている」

「ただの趣味が……こんな役に立つなんて思いませんでしたわ」

「“ただの趣味”ではない。才能だ」


 短い言葉。だが、心の奥に響いた。



 ある日、砦の会計係が困った顔で帳簿を抱えてきた。


「奥さま……すみません、税の徴収記録が滅茶苦茶で」

「拝見しますわ」


 アメリは帳簿を受け取り、素早く目を走らせる。

 数字の食い違い、領民からの納入記録の欠落。王都の学び舎で教わった法務知識が役に立った。


「これは……領民に二重に徴収しているのでは?」

「えっ!? ま、まさか……」


 アメリは羽ペンを取り、契約法に基づいた新しい書式を作り上げる。


「今後はこの形式に統一してください。重複は一目で分かります」

「……助かります! 奥さま、すごい……!」


 兵士や役人たちの目が一層尊敬に変わっていくのを、アメリは感じた。



 そしてもう一つ。

 砦の食堂で、アメリは大量に残された硬い黒パンを見つめていた。


「これでは兵たちの士気が下がるのも当然ですわ」


 厨房に入り、辺境で手に入る野菜や干し肉を調べる。

 そこから彼女は即席のシチューを作り上げた。


「香草を少し加えれば……はい、これで臭みが消えます」


 湯気と共に漂う香りに、兵士たちが次々と顔を覗かせる。


「な、なんだこれは……」

「美味い! 体が温まる!」


 兵たちの笑顔が広がり、食堂は明るい笑い声に包まれた。

 アメリは木杓子を置きながら、胸の奥で小さな誇りを感じる。


「料理なんて、王都では侍女任せでしたのに……」

「君は思っていた以上に、辺境に向いているようだな」


 エドモンが隣に立ち、短く言葉を落とす。

 その声音は硬質なのに、どこか優しかった。



 日々が重なるにつれ、村人たちの態度も変わった。


「奥さま、薬草の保存方法を教えていただけませんか?」

「裁縫の仕立て直しも頼めますか?」


 気づけば、砦の中でアメリの存在は“お飾りの令嬢”から“頼れる奥さま”へと変わっていた。

 そしてそれを一番近くで見ていたのは──もちろん、冷徹と呼ばれた騎士団長であった。


「……アメリ」

「はい?」

「無理をし過ぎるな」


 ぶっきらぼうな言葉。

 だが、その奥に隠された気遣いを、アメリは確かに感じ取っていた。


 辺境の生活にようやく慣れ、アメリは少しずつ笑顔を見せるようになっていた。

 兵たちは彼女を「奥さま」と呼び、村人も頼み事を持ち込む。

 砦に漂っていた冷たい空気は、いつしか温かさを帯び始めていた。


 だが──それをよしとしない者たちが、王都にはいた。



 ある日の午後。

 砦の門前に、王都からの使者が到着した。


「王太子殿下の名において、アメリ・ド・ロシュフォール殿に告ぐ!」


 高らかな声とともに、金糸の衣をまとった役人が馬を降りる。

 兵たちが警戒の視線を向ける中、アメリは落ち着いた足取りで門へ向かった。


「ご苦労さまですわ。……何の御用かしら?」


 涼やかな声に、役人は鼻を鳴らす。


「ふん。お前が辺境伯領に来てから、不審な動きが相次いでいる。領主家を惑わし、不貞を働いたのではないか、との嫌疑がかかっている!」


 ざわつく兵士たち。

 アメリは一瞬だけ目を伏せ──そして口元に冷たい笑みを浮かべた。


「不貞? ……根拠をお示しくださいませ」


「証人がいる! “お前が騎士団長と結託し、王国の秩序を乱している”と」

「……それはつまり、政略婚を王家が取り決めておきながら、その結果を『不貞』と呼ぶと?」


 アメリの反論に、役人は言葉を詰まらせる。

 周囲の兵たちがクスクスと笑い、空気が逆転していく。



 その場で、アメリは一枚の羊皮紙を取り出した。


「ご覧ください。これは婚姻契約書の写しです。王国法第十三条に基づき、双方の同意を得て成立したもの」


 役人が目を見開く。

 アメリはさらに続ける。


「“辺境伯領に嫁ぎ、夫を支えること”。これが契約に明記されています。ならばわたくしが刺繍を施し、兵を助け、村を守るのは契約の履行ですわ。……違約金をお支払いくださるのなら別ですが?」


「な、なにを……!」


 役人の顔が真っ赤になった。

 兵たちは一斉に笑い声を上げ、門前はスカッとした空気に包まれる。


「どうやら王都は、契約と現実の区別もつかなくなっているようですわね」


 アメリの冷ややかな声が響いた。



 その夜。

 アメリは砦の一室でエドモンと向き合っていた。

 ランプの明かりが彼の横顔を照らす。


「王都が動き出したか……」

「ええ。あの役人はただの前触れでしょう。本命はもっと後に来ます」

「君は……怖くないのか?」


 不器用な問いかけに、アメリは微笑んだ。


「怖いに決まっています。でも、わたくしにはもう守るものがある。兵たちの笑顔、村人の暮らし……そして、あなた」


 最後の一言に、エドモンが目を見開く。

 そしてすぐに視線を逸らし、不器用に咳払いをした。


「……無理はするな」


 短い言葉。

 だが、それは冷徹と呼ばれた騎士団長の精一杯の気遣いだった。



 翌朝。

 砦に戻った兵士が慌ただしく駆け込んできた。


「報告します! 王都からの陰謀が広がっています! “辺境伯領は反逆を企んでいる”との噂が──」


「やはり来たか」


 エドモンの声が低く響く。

 アメリは胸の奥に小さな怒りを燃やした。


「……いいでしょう。彼らが嘘で攻めてくるのなら、こちらは事実で返すだけですわ」


 その瞳は、冷たい鋼のように強く輝いていた。


 王都の陰謀の影がちらつくなかでも、砦での日常は続いていた。

 アメリは刺繍に加え、契約や会計の処理を助け、料理までこなす。

 兵士たちは彼女を頼りにし、村人は「奥さま」と慕った。


 だが──その分、彼女の体に疲労が積み重なっていた。



 ある晩。

 ランプの明かりの下で、アメリは一人刺繍を続けていた。

 布地に細かな花模様を縫い込みながら、ふと指先が震える。


「……少し休もうかしら」


 そう呟いた矢先、視界が揺れ、アメリは机に突っ伏した。


「アメリ!」


 鋭い声がして、誰かに抱きとめられる感覚。

 目を開けると、そこには騎士団長エドモンの真剣な顔があった。


「熱がある……! 無理をしすぎだ」

「……大丈夫。刺繍は途中だから」

「大丈夫なものか!」


 珍しく声を荒げる彼に、アメリは目を瞬かせた。


「……心配、してくださるの?」

「当たり前だ。君は……私の妻だから」


 短い言葉。だが、普段は冷徹と呼ばれる彼の口から出たそれは、胸に深く響いた。



 翌朝。

 布団から起き上がったアメリを、エドモンが待っていた。

 いつもの鎧姿ではなく、軽装で。


「無理をするな。今日の刺繍は兵に任せろ」

「……でも、わたくしにしかできないことですわ」

「君が倒れたら、兵も村人も困る。……私も困る」


 最後の一言に、アメリは思わず頬を染めた。


「……エドモン殿、今のは」

「事実を言ったまでだ」


 彼は視線を逸らし、ぎこちなく咳払いをする。

 その不器用な態度に、アメリはくすりと笑った。


「意外と、可愛いところがあるのね」

「……っ!」


 エドモンの耳が赤く染まり、彼は慌てて背を向けた。



 その後も、エドモンは不器用な形で彼女を気遣うようになった。


「針で指を傷つけるな。消毒薬を常に置け」

「夜更かしは体に悪い。灯りは早めに消せ」

「重い荷物は運ぶな。兵を呼べ」


 口調は命令のようでいて、実際は心配から来ているのが分かる。

 アメリはそのたびに、胸の奥が温かくなった。


「そんなに世話を焼いて、冷徹と呼ばれなくなってしまいますわよ?」

「……君にだけは、そう呼ばれなくても構わない」


 ぽつりとこぼれた言葉に、アメリは息を呑む。

 けれど彼はすぐに口をつぐみ、無骨な背を向けて去っていった。



 夜。

 窓から差し込む月明かりの下で、アメリは一人呟いた。


「……わたくしは、ただの政略結婚の駒のはずだったのに」


 今は違う。

 辺境の人々に必要とされ、不器用な騎士団長に守られている。


 胸の奥が甘く熱くなる。

 それが“恋”だと気づくのは、もう少し先のことかもしれない。


 王都からの呼び出し状が届いたのは、冷たい雨が砦を打つ日だった。


「……やはり来たか」


 エドモンが低く呟く。

 王都は、辺境伯領が“反逆を企んでいる”と糾弾するために、アメリと彼を召喚したのだ。


「断れば、ますます疑いを濃くするだけですわね」

「危険だ。だが──行くしかない」


 二人は覚悟を決め、王都への道を進んだ。



 王城の謁見の間。

 煌びやかな貴族たちが居並び、視線を突き刺す。

 その中心で、王太子ギルベールとクラリスが勝ち誇った顔をしていた。


「アメリ・ド・ロシュフォール! 辺境伯領の女狐! お前は騎士団長と結託し、王国を揺るがす大罪を犯した!」


 大広間に響く王太子の声。

 クラリスが扇を打ち鳴らし、取り巻きの令嬢たちが嘲笑を浮かべる。


 だがアメリは、微笑んだまま一歩前に出た。


「──その“罪”とやらの証拠を、拝見できますか?」


「証人がいる! “辺境で不貞を働き、魔術を用いて兵を惑わせた”と!」

「まあ。では証人に伺いますわ。わたくしが刺繍をして兵の剣を軽くしたこと……それが罪だと?」


 場がどよめいた。

 刺繍──たかが令嬢の趣味が、兵を助けていると初めて聞いた者も多いのだ。



 アメリは懐から羊皮紙を取り出した。


「こちらをご覧ください。これは婚姻契約書の写し。そしてこちらは砦での納税記録と、村人たちの署名です」


 王城の文官が思わず前に乗り出す。

 アメリは声を張った。


「王都の噂は“反逆”だと申しますが、実際には税の二重取りを正し、村人の生活を安定させただけ。これが“反逆”ならば、王都の方こそ契約違反に問われるのでは?」


「なっ──!」


 王太子が狼狽し、クラリスが慌てて口を挟む。


「だ、黙りなさい! 辺境の卑しい女が──」

「卑しい? 王妃候補がそのような言葉をお使いになるのですか? 社交界では“教育不足”と見做されますわよ」


 冷ややかな一言に、広間の貴族たちがざわめき、笑いを押し殺す。

 クラリスの顔が真っ赤に染まった。



 さらに、アメリは刺繍布を取り出す。

 光を帯びた糸の紋様が浮かび、兵士がそれを纏うと動きが軽くなる。


「これがわたくしの《職能》。刺繍による付与術です。兵たちの証言もございます」


 兵士たちが次々と頭を下げる。

 その姿に、王城の空気が完全に逆転した。


「つまり──わたくしは王国を助け、守ってきたのですわ。王太子殿下、あなたの言葉が事実無根であることは明白です」


「ぐっ……」


 ギルベールの顔は青ざめ、声が喉に詰まった。

 広間の空気は、もはやアメリのものだった。



 最後に、アメリはゆっくりと一礼し、冷ややかな笑みを浮かべた。


「殿下。わたくしとの婚約を破棄なさった時点で、契約違反の請求書は王都に届いております。お支払いがまだのようですが?」


 ざわめきは爆発し、ついには失笑が広間を満たした。

 王太子とクラリスは蒼白になり、貴族たちは一斉に視線を逸らす。


 ──公開裁断のざまぁ。

 アメリは見事に勝ち取ったのだ。



 謁見の間を出た廊下。

 エドモンが隣に歩きながら、短く言った。


「見事だった」

「当然ですわ。わたくしはロシュフォール家の娘ですもの」

「……それでも、君がいなければ砦も、兵も守れなかった」


 彼の声は低く、不器用ながらも温かかった。

 アメリは少し頬を赤らめ、笑みを浮かべた。


「では……この勝利を、二人のものといたしましょう」


 その言葉に、エドモンの瞳がわずかに揺れた。


 王都での公開裁断から数日後。

 アメリとエドモンは、砦へ戻るための馬車に揺られていた。


「……お疲れでしょう、アメリ」

「ええ。でも、不思議と晴れやかな気持ちですわ」


 窓の外に広がる青空を見上げ、アメリは微笑む。

 婚約破棄の辱めを受けたあの日から、長い道のりを歩んできた。

 それが今、すべて“ざまぁ”となって返ってきたのだ。


「王都であれほど堂々と立ち回れるとは思わなかった」

「わたくしを誰だと思っているの? ロシュフォール家の娘ですのよ」


 軽口を叩くと、エドモンはわずかに口元を緩めた。

 冷徹と呼ばれた男の、その笑みを見られるのは自分だけ──アメリは心の奥でそう確信する。



 砦に戻ると、兵たちと村人が待ち構えていた。

 旗が掲げられ、即席の宴が用意されている。


「奥さまー!」

「お帰りなさいませ!」


 笑顔と歓声に包まれ、アメリは思わず涙ぐんだ。

 こんな温かな迎えを、王都では決して受けられなかった。


「……わたくし、本当にここで生きていいのね」

「当然だ」


 隣で短く言ったエドモンの声に、また胸が熱くなる。



 宴が続く中、エドモンがアメリを人の少ない塔の上へと連れ出した。

 風が吹き抜け、夜空には無数の星が瞬いている。


「アメリ」

「……はい?」


 彼はしばらく言葉を探すように黙っていた。

 やがて、不器用な口調で呟く。


「政略婚から始まった。最初は、ただ義務として君を守ろうと思っていた」

「ええ、存じていますわ」

「だが今は違う。……君が砦を支え、兵を助け、村人に慕われる姿を見てきた」


 エドモンは拳を握りしめ、まっすぐに彼女を見つめる。


「私はもう、義務ではなく……心から、君を妻として愛している」


 その言葉に、アメリの瞳が大きく見開かれた。

 やがて頬が熱を帯び、唇に笑みが浮かぶ。


「……遅いですわ」

「え?」

「もっと早く言ってくださってもよかったのに。わたくし、とっくに気づいていましたのよ」


 アメリはそっと彼の胸に額を預ける。

 鼓動の強さに、自分の胸も高鳴った。


「わたくしも、あなたを愛しています。冷徹だなんて、もう誰にも言わせませんわ」


 エドモンの腕が、彼女をしっかりと抱き締める。

 その温もりの中で、アメリはようやく“居場所”を得たのだと実感した。



 宴の終わり。

 村人や兵たちが焚き火を囲む中、アメリは自ら作ったシチューを振る舞った。


「奥さまの料理だ!」

「これを食べれば、どんな戦いも勝てる!」


 笑い声が夜空に響く。

 エドモンがその光景を見つめ、ぽつりと呟いた。


「……君が来てから、砦は変わった」

「変わったのは、わたくし自身ですわ。ここで、あなたと生きると決めたから」


 その声に、エドモンは深く頷いた。



 星空の下。

 アメリは心の中で、あの日の王都を思い出す。

 婚約破棄で辱められた夜会。

 でも今はもう、その記憶に怯えることはない。


「婚約破棄? ざまぁは済ませました。……わたくしには新しい人生がありますもの」


 そう呟くと、夜風が優しく彼女の頬を撫でた。


 刺繍の光が彼女の胸元で淡く輝き、まるで未来を祝福しているかのようだった。

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― 新着の感想 ―
最初の婚約破棄の場面から一気に引き込まれました。アメリ様の冷静で強い姿が本当にかっこよかったです。刺繍の才能が付与術になる展開も意外で面白く、読んでいてワクワクしました。エドモン様との関係も少しずつ距…
こんな王太子と王太子妃で今後大丈夫なのか? こいつらがそのままなのがモヤモヤ。
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