三鴻郵船の設立とその興隆
三鴻善俊と星澤翠幸は前回に述べた通りの付き合いでこの章の一番最初の冒頭に書いた手紙も子供の時に送りあったものである。
星澤は生粋の技術者で、理系であったのに対し、三鴻は、数学は全くできない文系であったため、彼らの得意分野は全くかぶらなかったが、気はよくあった。特に、三鴻は時々(一般人から見て)気がおかしくなったような言動をするので、抑制役として、よく星澤のほうは動いたのであった。
彼らの最初の成功は、三鴻のかねてからの要望で星澤が新しく開発した帆を、三鴻が新しく作った会社で年始の競争に使用することで、優勝を飾って、名声をあげたことだ。しかし翠幸帆と呼ばれるその帆の作り方を、彼ら二人は、同業者や、沖合まで出かける漁師にも教えてしまったので、帆の開発によって、独占的な利益を上げられたわけではなかった。
特に、まだこの時代は知的財産権がなかったため、技術の盗用はいくらでもできたので、それならば、と、彼ら二人は作り方を広めてしまったのだ。
そのため、会社の成功要因はそれだけではないだろう。彼らはほかに、すたれてしまった古代の船舶技術を取り入れて、新たな船舶の開発に取り組んだりした。
しかし、彼らが最も巨大化した理由は、三鴻が船の新しさや汚れ具合などにこだわらず、中古船をできるだけ安く買いたたき、より多くの貨物を運ぶようにしたからだろう。
彼の形式にこだわらない中古船の購入とそれの航行は、正しい戦略であるといえる。なぜなら、高田屋嘉兵衛の最初の購入した千石船である辰悦丸は、中古船であったという説もある。
しかし、この中古船購入による成功の最たる例といえば、現在、世界で最大の海運会社MSCであり、その創業当時から現在に至るまでに中古の貨物船、コンテナ船を購入してその勢力を広げてきたことがあげられる。
また、買い積み式であったため、運ばれる商品の質を保証することで、信用をあげ、先ほどのような年始の競争やほかの節目節目に行われる競争でも成績を上げることで、運航速度でも実績を上げた三鴻郵船は、自ら顧客と取引を行うことで、商社の様相も呈してきた。
彼らは、順調に行って、このまま一大海運会社を築きあげて人生を終わっていたかもしれない。
しかし、彼らの運命は、一人の男の娘に出会うことで、大きく変わることになる。
参考文献
https://it.wikipedia.org/wiki/Gianluigi_Aponte
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80%E5%B8%86
https://www.kaijipress.com/news/container/2022/12/171660/




