消せない光
ヘッドセットを外しても、耳の奥にはまだ、アイツの声が残っていた。あの、よく通る、少しだけ甘えたような声。幼い頃から聞き慣れたその声が、今は画面の向こうから届く。まるで、違う世界の住人になってしまったかのような、不思議な感覚。
「……はぁ」
ため息が、部屋の空気に溶けていく。ベッドに仰向けになり、天井を見つめる。白いクロスには、何の模様もない。ただ、そこにあるだけ。俺の心の中も、まるでこの天井みたいに、何もなくて、ひたすら空っぽだった。
なぜ、アイツの配信を見続けてしまうのか。理由は、簡単だ。
会いたいから。
それだけじゃない。
アイツが、今、何を考え、何を感じているのか。
どんな風に笑い、どんな風に怒るのか。
俺の知らない、アイツの新しい一面を、知りたいから。
だけど、俺には、もう直接それを知る術はない。だから、こうして画面越しに、アイツを盗み見ることしかできないんだ。
「お前さ、俺が頑張ってるの、応援してくれてんの?」
あの時のアイツの声が、脳裏に響く。あの瞬間、俺は確かに応援していた。ただ、言葉が出てこなかっただけだ。東京での生活に揉まれ、夢に向かって突き進むアイツの姿に、俺は正直、気圧されていた。自分は地元で、平凡な大学生活を送っている。
そんな俺が、一体何を言えば、アイツの重荷にならないだろうか。
そう考えているうちに、言葉は喉の奥に引っかかったまま、出てこなかった。
「なんかさ、温度差、感じんだよ。お前、本当に俺のこと、どうでもいいんだな」
違った。どうでもいいわけじゃない。むしろ、逆だった。大切すぎて、何をどうすればいいのか分からなかった。だから、何もできなかった。それが、アイツを傷つけた。
高校の卒業式の日、アイツは俺に言ったんだ。
「なあ、お前、寂しくなる?」
普段のアイツらしくない、少しだけ弱々しい声だった。俺は、その問いにどう答えたらいいか分からなかった。寂しくないわけがない。だけど、ここで「寂しい」と言って、アイツの背中を止めてしまっていいのか。東京へ行くアイツの邪魔をしてしまわないか。そんなことを考えているうちに、俺はただ、黙ってアイツの顔を見つめていた。
「なんだよ、黙ってんじゃねーよ。別に、そんなこと聞いてもねーか」
アイツは、そう言って、フッと笑った。その笑い方が、いつもの明るいアイツの笑い方と少し違っていて、俺の胸は締め付けられた。あの時、俺が素直に「寂しい」と言えていたら。
思えば、俺はいつもそうだった。肝心なところで、言葉を飲み込んでしまう。アイツが、俺の隣で、ずっと当たり前のようにいてくれたから、俺は言葉にしなくても、通じ合っていると、勝手に思い込んでいたのかもしれない。
アイツが東京に行ってからも、そんな俺の態度は変わらなかった。連絡を取り合っていても、俺からの発信は少なかった。アイツが忙しくなるにつれて、電話もメールも、ほとんどアイツからだった。
ある日、アイツから電話がかかってきた。
「なあ、今度、俺の誕生日なんだけどさ。東京来ねーの?」
その時の俺は、期末試験とレポートに追われていた。もちろん、東京へ行きたい気持ちは山々だったけれど、日程的にどうしても無理だった。
「ごめん、ちょっと、その日は無理そうだ」
そう答えるのが精一杯で、他に何の言葉も添えられなかった。アイツは、「そっか」と、少し残念そうな声を出した。その後の電話は、どこかぎこちないものになった。
数日後、アイツから写真が送られてきた。東京の、見慣れない洒落たレストランで、たくさんの友人に囲まれて、楽しそうに笑うアイツの姿。その中に、俺の姿はなかった。
それから、少しずつ連絡は減っていった。俺も、初めての一人暮らしで、慣れない大学生活を送る中で、自分のことで手一杯だった。アイツからの連絡が来ないことに、寂しさを感じながらも、自分から連絡することもしなかった。
そして、あの電話。
「お前さ、俺が頑張ってるの、応援してくれてんの?」
あの言葉は、アイツからの、最後の問いかけだったのかもしれない。それなのに、俺はまた、何も言えなかった。俺の沈黙が、アイツの心を完全に閉ざしてしまったのだろう。
目を閉じると、幼い頃のアイツの顔が浮かんだ。
「なあ、お前、大きくなったら何になりたい?」
縁側に座って、隣に並んで空を見上げていたあの日。
俺は、アイツの夢を、ずっと応援してきたつもりだった。アイツは、ゲーム実況者になりたい、とキラキラした目で言っていた。俺は、ただ隣で頷いていたけれど、心の中では「なれるよ、絶対」と信じていた。
今、アイツは、夢を叶えている。画面の中で、たくさんの人に囲まれて、輝いている。俺は、その光を、遠くから眺めることしかできない。まるで、手の届かない星のように。
目を閉じても、瞼の裏に焼き付いたアイツの笑顔が消えない。
もし、もう一度、アイツと話せる機会があるのなら。
あの時、言えなかった言葉を、伝えたい。
俺は、お前のこと、ずっと応援してる。
お前のことが、ずっと大切なんだ、と。
けれど、そんな機会は、もう二度と訪れないだろう。
アイツは、もう、俺のことなんて、どうでもいいと思っているのだから。