第3章1節:憂鬱の影、最初の接触
「こころの小部屋」を開いてから数日、口コミは静かに広がり、ぽつりぽつりと相談者が訪れるようになっていた。その多くは、人間関係の悩みや仕事上のストレスといった、これまでの経験で対応可能なものだった。しかし、その日、部屋の扉を叩いた訪問者は、明らかに異質な空気を纏っていた。
マイヤと名乗るその女性は、まだ二十代半ばのはずなのに、まるで燃え尽きた蝋燭のように生気が感じられなかった。艶を失った亜麻色の髪、虚ろな瞳、力なく下げられた肩。彼女は、私が勧めた椅子にゆっくりと腰を下ろすと、か細い声で話し始めた。
「あの……セイラさん、ですよね? 悩みを聞いてくださると聞いて……」
「はい、セイラです。マイヤさん、どうぞお話しください」
私は努めて穏やかに、そして注意深く彼女の様子を観察しながら応じた。彼女は元々、近隣の街から仕入れた布地をリンドブルムで売る、活発な商人だったと聞いている。しかし、今の彼女からは、かつての面影を見出すことは難しかった。
(……表情が極端に乏しい。感情の平板化が見られる。声のトーンも単調で、抑揚がない。視線も合わず、手元のスカートの皺をいじり続けている。これは……単なる気分の落ち込みとは違う。もっと深い、精神のエネルギーそのものの枯渇……これが、噂の『憂鬱病』なのだろうか?)
「何から、話せばいいのか……。ただ……もう、何もしたくないんです」マイヤは途切れ途切れに言った。「朝、起きるのが辛い。仕事に行く気にもなれない。好きだった刺繍も、もう何週間も手をつけていない……。理由なんて、わからないんです。ただ、体が鉛のように重くて、心が、空っぽみたいで……」
その言葉には、具体的な悩みや原因が見当たらない。ただ、漠然とした、しかし圧倒的な無気力と絶望感だけが漂っていた。ドルガンさんのような明確なストレス要因や葛藤とは質が異なる。
私は、まず彼女の苦しみに寄り添うことから始めた。
「何もする気が起きない、心が空っぽのようだ、と感じていらっしゃるのですね。それは、とてもお辛い状態ですね」
共感の言葉を投げかける。だが、マイヤの反応は薄かった。わずかに頷いたようにも見えたが、その瞳は依然として虚空を見つめている。ラポール――信頼関係の構築が、これまでのケースとは比較にならないほど難しい。私の言葉が、まるで厚いガラス壁に阻まれているかのように、彼女の心に届いていない感覚があった。
(これは……手強い。彼女自身の内面にアプローチしようとしても、そのエネルギー自体が枯渇している。外部からの刺激や働きかけに対する反応も極端に鈍い。従来のカウンセリング技法だけでは、限界があるかもしれない)
私は質問の角度を変えてみた。
「そのように感じ始めたのは、いつ頃からですか? 何か、きっかけになるようなことは思い出せませんか?」
マイヤはしばらくの間、ぼんやりと考えていたが、やがて力なく首を振った。
「……わからないんです。でも……そう、思い返せば……一月ほど前、仕入れの帰り道で、あの古い水道橋の近くを通ってから……かもしれません。あの辺り、なんだか空気が淀んでいて、気味が悪くて……。それから、少しずつ、おかしくなったような気が……」
古い水道橋――。レオが言っていた場所だ。偶然だろうか?
「水道橋の近くを通ってから……」
「ええ……。気のせいかもしれませんけど……」
マイヤはそれ以上、詳しく語ろうとはしなかった。彼女の疲労は明らかで、これ以上無理に話を引き出すのは適切ではないと判断した。
「マイヤさん、今日はお話しいただき、ありがとうございました。すぐには解決策が見つからないかもしれませんが、またいつでもいらしてください。少しずつでも、お気持ちが軽くなるお手伝いができればと思います」
私はできる限り安心させるように声をかけ、その日のセッションを終えた。マイヤは力なく頷くと、来た時と同じように、重い足取りで部屋を出ていった。
一人残された部屋で、私は深い溜息をついた。これが「憂鬱病」の実態なのだとしたら、問題は想像以上に深刻だ。そして、あの水道橋の噂……。無視できない。
その日の夕方、私は仕事を終えると、足早にギルド通りへと向かった。情報屋のレオなら、もっと詳しいことを知っているかもしれない。
幸い、レオはギルド近くの路地裏で、他の少年たちと何かを賭けてカード遊びに興じているところをすぐに見つけられた。
「レオ君、少し時間いいかしら?」
「おっと、セイラ姉ちゃんじゃねえか。どうしたんだい、そんなに慌てて」
レオはカードを放り出すと、にやにやしながら近づいてきた。
「この前の話、古い水道橋と魔物の噂について、もっと詳しく教えてほしいの」
「へぇ? やっぱり食いついてきたか。まあ、いいけどよ……情報はタダじゃねえって言ったよな?」
レオは人差し指と親指で輪を作って見せた。私は小さくため息をつき、昼間の売上から、わずかな銅貨を取り出して彼に手渡した。アルバート・ワイズマンとしては、いささか不本意な取引だが、背に腹は代えられない。
「まいどあり!」
レオは銅貨をひょいと受け取ると、声を潜めて語り始めた。
「例の水道橋は、街の西の外れにあるやつだ。今はもう使われてなくて、ほとんど廃墟みてぇになってる。で、『溜息の魔物』だが……正式な名前はわかんねぇ。ただ、目撃者によると、影みたいにゆらゆらしていて、はっきりした形はないらしい。そいつが近くにいると、どこからともなく、すすり泣くような、溜息のような声が聞こえてきて、それを聞いちまうと、急に悲しくなったり、やる気がなくなったりするんだとさ」
「被害者は?」
「ここ一、二ヶ月で、あの辺りに近づいた奴が何人か、似たような症状――つまり、例の『憂鬱病』みてぇになってるって話だ。特に、元々気が弱い奴とか、悩み事がある奴が影響を受けやすいらしいな」
影のような魔物。精神への直接的な影響。元々の精神状態との関連。マイヤさんの話とも符合する。これは、単なる偶然や気のせいでは済まされない可能性が高い。
「ありがとう、レオ君。貴重な情報だわ」
「どうってことねぇよ。……けどな、姉ちゃん。忠告しとくぜ。あの水道橋には、面白半分で近づくんじゃねえぞ。魔物の仕業じゃなかったとしても、あの辺りは治安も悪いし、何より……本当に『おかしくなっちまう』かもしれねえからな」
レオの鳶色の瞳が、一瞬、真剣な色を帯びた。彼も、この問題の異常さを感じ取っているのだろう。
こむぎ亭に戻り、私は一人、自室の机に向かった。マイヤさんの状態、レオからの情報、そしてこれまでの知識。それらを繋ぎ合わせ、思考を巡らせる。
(「憂鬱病」は、単一の原因によるものではない可能性が高い。個人の心理的な脆弱性、社会的なストレス、そして……魔物のような外部からの精神汚染。これらが複雑に絡み合って、発症に至るのではないか?)
だとすれば、私のカウンセリングだけでは、根本的な解決にはならないだろう。魔物の存在が確かなら、それをどうにかしなければならない。しかし、私には物理的な力はない。
(神殿や、他の治療師たちは、この状況をどう捉えているのだろう? 魔物の存在には気づいているのか? あるいは、原因不明の病として、祈祷やまじないに頼っているだけなのか……?)
これまでのところ、有効な対策が取られている様子はない。既存の知識や権威――例えば、伝統的な神官や、経験豊富な治療師といった存在――は、この新しい脅威に対して、どう動いているのだろうか。彼らとの接触も、いずれ必要になるかもしれない。対立するのか、協力できるのか……。
問題の輪郭が見えてきたと同時に、その複雑さと、自身の限界もまた、明確になってきた。だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。
私は新しいノートを開き、最初のページに大きく書き記した。
『憂鬱病調査ファイル:ケース1 マイヤ / 要注意地点:古い水道橋 / 関連可能性:溜息の魔物(仮称)』
私の本当の戦いは、ここから始まるのかもしれない。心の闇と、そして、この世界に潜む未知の脅威との、静かで、しかし困難な戦いが。




