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第3節:心の羅針盤の見つけ方

 ティムは、差し出されたハンカチで涙を拭いながら、少し考えてから答えた。


「……えっと……、すごく、カッとなった。ムカムカした……。なんで、僕の好きなものを馬鹿にするんだって……」


 素直な感情の表現だ。それを否定せずに受け止める。


「そう、カッとなったのね。ムカムカした。自分の大切なものを馬鹿にされて、腹が立ったんだ」


 彼の感情を正確に言葉にして繰り返す。ラベリングと呼ばれる手法で、自分の感情を客観的に認識する手助けになる。


「うん……。でも、突き飛ばしちゃダメだって、わかってるんだ……。だから、僕、やっぱり悪い子なんだ……」


 再び自己否定の言葉。罪悪感が彼を苛んでいる。


「ティムは、友達を傷つけようと思って、突き飛ばしたの?」


 私は静かに尋ねた。行動の意図を確認することは重要だ。


「……ううん。そんなつもりじゃ……。ただ、なんか、やめてほしくて……」

「そっか。やめてほしかったんだね。自分の絵を笑うのを」

「うん……」

「友達を突き飛ばしてしまったことは、良くないことだったかもしれない。先生やお母さんが怒ったのも、ティムを心配してのことだと思うわ」


 彼の行動を肯定はしない。社会的なルールや他者の視点も伝える。しかし、それは彼を断罪するためではない。


「でもね、ティム」と私は続けた。「自分の好きなものを大切に思う気持ちは、決して悪いものじゃないのよ。お父さんのお仕事場がかっこいいと思う気持ち、それを一生懸命描いたこと。それは、とても素敵なことだと思うわ」


 彼の根底にある「好き」という気持ち、そして絵を描いたという「行動」そのものは肯定する。これにより、彼の自己肯定感を支える。


 ティムは驚いたように顔を上げた。彼の瞳に、わずかな光が戻ったように見えた。


「……ほんと?」

「ええ、本当よ。人は誰でも、自分の好きなものや、大切にしていることがあるでしょう? それを誰かにわかってもらえなかったり、笑われたりしたら、悲しくなったり、腹が立ったりするのは、自然なことなの」


 感情の正当性を伝える。異常なことではないと安心させる。


「じゃあ……、僕は、どうしたらよかったのかな……?」


 ティムの口から、前向きな問いが自然に出てきた。これは大きな進歩だ。自己否定から、問題解決への思考へとシフトし始めている証拠だ。


「そうね……。難しいけれど、例えば、カッとなった時に、ぐっと堪えて、言葉で伝えてみるのはどうかしら?」

「言葉で?」

「ええ。『僕はこの絵が好きなんだ。だから、笑わないでほしいな』って。あるいは、『どうして変だと思うの?』って聞いてみるのもいいかもしれない。もしかしたら、そのお友達は、ただティムの絵が自分の知っている『きれいな絵』と違っていただけで、悪気があったわけではないのかもしれない」


 具体的な代替行動の提案。コミュニケーションによる解決の可能性を示唆する。完璧な答えを与えるのではなく、選択肢を提示し、彼自身に考えさせる。


「……そっか……」

 ティムは真剣な顔で考え込んでいる。

「もちろん、すぐに上手にできるとは限らないわ。カッとなっちゃうこともあるかもしれない。でも、『次はこうしてみよう』って思うことが大切なの。ティムは悪い子なんかじゃない。ただ、自分の気持ちをどう扱ったらいいか、まだ少し戸惑っているだけなのよ」


 失敗しても大丈夫だというメッセージと、彼の可能性への信頼を伝える。


 私はカウンターの下から、焼き立ての小さな動物パンを一つ取り出した。


「これは、私から。今日、頑張ってお話ししてくれたご褒美」

 ティムは少し照れたように、でも嬉しそうにそれを受け取った。

「……ありがとう、セイラ姉ちゃん」


 彼の表情は、店に来た時とは見違えるほど明るくなっていた。まだ少し涙の跡は残っているけれど、瞳には力が戻り、口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。


「どういたしまして。もし、また何かあったら、いつでもおいでなさい。パンは買わなくてもいいから」


 私は微笑んで言った。ティムはこくりと頷き、動物パンを大事そうに抱えて、今度はしっかりとした足取りで店を出ていった。


 その小さな背中を見送りながら、私は静かに息をついた。アルバート・ワイズマンとしての経験が、今、確かにこの異世界で役立った。ほんの小さな一歩だが、確かな手応えを感じていた。


(子供の心は、驚くほどしなやかだ。適切な言葉と共感があれば、自ら立ち直る力を持っている)


 数日後、ティムの母親が店にやってきて、深々と頭を下げて言った。

「セイラちゃん、本当にありがとう! あの日以来、ティムがすっかり元気になって……。友達とも、ちゃんと話して仲直りできたそうなの。あの子、セイラちゃんに相談してよかったって、何度も言ってたわ」


 その言葉に、私の胸にも温かいものが広がった。誰かの心が軽くなる瞬間に立ち会えること。それが、かつての私が感じていた、何よりの喜びだった。


 しかし、同時に思う。ティムのような個人的な悩みとは別に、この都市に広がる「憂鬱病」の影は、もっと根深く、複雑な問題を孕んでいるのかもしれない。私の知識と経験は、果たしてどこまで通用するのだろうか。


 窓の外では、リンドブルムの日常が続いている。活気の中に潜む、見えない心の澱み。私はそれを注意深く見つめながら、これから自分が為すべきこと、そして為しうることを、静かに模索し始めていた。


 異世界での私の「カウンセリングルーム」は、まだ形もない。けれど、その扉は、今、確かに開かれたのかもしれない。

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