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第2節:小さな影と最初の問いかけ

 昼下がりの「こむぎ亭」は、少しだけ落ち着きを取り戻していた。焼き上がったパンの香りが満ちる店内で、私はカウンターの片付けをしながら、午後の客足に備えていた。


 その時、店の入り口のベルが、ちりん、と控えめな音を立てた。入ってきたのは、見慣れた顔だった。近所に住む少年、ティムだ。八歳くらいの、そばかすがチャームポイントの元気な男の子。いつもなら、「こんにちは、セイラ姉ちゃん!」と大きな声で飛び込んでくるはずなのに、今日の彼はどこか様子が違った。


 俯き加減で、足取りも重い。肩を落とし、まるで小さな雨雲でも背負っているかのように、どんよりとした空気を纏っている。トレードマークの笑顔はどこにも見当たらない。


「あら、ティム。いらっしゃい」


 私は手を止め、できるだけ穏やかな声で話しかけた。驚かせないように、普段通りの、しかし少しだけ注意深い視線を向ける。


(……瞳に力がなく、視線が定まらない。口元は固く結ばれ、肩には不自然な力が入っている。服装に乱れはないが、全体的にエネルギーレベルが著しく低下している。何があったのだろう? 単なる子供の癇癪ではなさそうだ)


「……こんにちは」


 ティムは小さな声で呟くと、カウンターの前に立ち、視線を床に落としたまま黙り込んでしまった。いつもなら、お小遣いを握りしめて、目を輝かせながら甘い菓子パンを選ぶのに。


「今日は、何にするの? さっき、メロンパンが焼けたところよ」


 私は努めて明るく問いかける。だが、ティムは首を横に振るだけだった。


「……ううん、いい」

「そう? 何かあったの?」


 単刀直入すぎただろうか。けれど、彼の様子は明らかに尋常ではなかった。子供の心は、大人が思うよりもずっと繊細で、傷つきやすい。そして、その小さなサインを見逃してはいけないと、アルバート・ワイズマンの経験が告げていた。


 ティムはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。


「……なんでもない」


 典型的な防衛反応だ。「大丈夫」「なんでもない」という言葉は、しばしばその逆を意味する。特に子供の場合は。


「そう……。でも、なんだか元気がなさそうに見えるわ。もし、何か話したいことがあったら、聞くだけならできるけれど」


 私は、圧迫感を与えないように、少し身をかがめて視線を合わせようとした。そして、静かに待った。カウンセリングの基本は、まず相手が安心して話せる空間を作ること。そして、沈黙を恐れないことだ。


 数秒か、あるいは数十秒か。ティムは床を見つめたまま、小さな声で言った。


「……僕、ダメな子なのかな」


 その言葉には、子供らしいストレートな自己否定が込められていた。胸がちくりと痛む。この小さな存在が、なぜそんな風に自分を責めているのだろう。


「どうして、そう思うの?」


 私はできる限り優しい声色で尋ねた。彼の言葉を否定も肯定もせず、ただ、その理由を知りたいという純粋な関心を示す。


 ティムは唇を噛み締め、何かを言おうとしては、ためらう、という動作を繰り返した。彼の心の中で、言葉にすることへの恐れや恥ずかしさが葛藤しているのが見て取れた。


「ゆっくりでいいのよ。言いたくないことは、言わなくてもいいから」


 安心させるように付け加える。無理強いはしない。彼自身のタイミングで、彼自身の言葉で語り始めるのを待つ。それが、彼が自分自身の問題と向き合うための第一歩になる。


 やがて、ティムは小さな肩を震わせながら、ぽつり、ぽつりと語り始めた。


「……昨日、学校で……絵を描いたんだ」

「うん」

「先生が、『好きなものを描きなさい』って言ったから……僕は、お父さんの仕事場の絵を描いたんだ。鍛冶屋さんなんだ、僕のお父さん」

「そう、立派なお仕事ね」

「でも……友達が、僕の絵を見て……笑ったんだ。『変なの』って。『煙突ばっかりで、全然きれいじゃない』って……」


 ティムの声が震え、瞳に涙が滲む。


「それで……僕、なんだかすごく悲しくなって……悔しくなって……。その友達のこと、突き飛ばしちゃったんだ……」

「そう……」

「先生に、すごく怒られた。『暴力はいけない』って。『ティムは悪い子だ』って……。お母さんにも言ったら、『どうしてそんなことするの!』って……」


 彼の言葉は途切れ途切れで、感情の波に揺れていた。私はただ、静かに頷きながら、彼の言葉に耳を傾けた。彼の視点から見た「事実」と、その時に彼が感じた「感情」。それらを丁寧に受け止める。


(なるほど……。状況が見えてきた。友達からの否定的な評価、それに対する衝動的な行動、そして大人からの叱責。彼の中で、「自分の好きなもの(父親の仕事)を否定された悲しみ」と「衝動的な行動への罪悪感」、そして「大人に理解されなかった孤独感」が渦巻いているのだろう)


 子供の世界では、友達の言葉は時に絶対的な力を持つ。そして、自分の大切なものが否定されたと感じた時の衝撃は大きい。衝動的に手が出てしまったことも、彼にとっては初めての経験だったのかもしれない。


 問題は、彼の行動そのものだけではない。その行動の裏にある感情と、その感情が生まれた背景にある出来事だ。そして、彼が今、「自分はダメな子だ」と思い込んでしまっている、その「認知の歪み」を解きほぐす必要がある。


「……悲しかったのね。自分の描いた絵を、変だって言われて」


 私はまず、彼の最も強い感情――悲しみ――に焦点を当てて、共感の言葉を伝えた。彼の気持ちを代弁することで、「自分の感情は間違っていないんだ」と彼に感じてもらうことが重要だ。


 ティムはこくりと頷き、堰を切ったように涙を流し始めた。


「うん……。だって、お父さんの仕事場、かっこいいんだもん……。火花が散って、鉄を打つ音がして……。僕は、大好きなんだけど……」


 嗚咽混じりの言葉。私は黙ってティムの隣に寄り添い、彼が泣き止むのを待った。感情の表出は、心の浄化作用カタルシスの第一歩だ。無理に止めさせる必要はない。


 店の奥から、母が心配そうにこちらを窺っているのが視界の端に入ったが、私は静かに首を横に振って、大丈夫だと合図を送った。今は、私とティムだけの時間が必要だった。


 やがて、ティムの嗚咽が少しずつ収まってきた。私はハンカチを差し出しながら、再び穏やかに問いかけた。


「友達を突き飛ばしてしまった時、どんな気持ちだったか、覚えてる?」


 過去の行動と、その時の感情を結びつけて振り返ることは、自己理解を深める上で大切なプロセスだ。

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