第3章3節:水道橋の不協和音
エリアーデから託された古い羊皮紙。その解読は容易ではなかったが、私はパン屋の仕事と相談業務の合間を縫って、少しずつ読み進めていった。古代文字と現代語が混じり、象徴的な表現も多い。しかし、そこに描かれている概念――心の調和、内なる対話、感情の波の乗りこなし方、共同体における個人の役割――は、驚くほど前世で学んだ心理学の諸理論と共鳴するものがあった。
(これは、単なる偶然の一致ではない。人間の心の普遍的な構造と、それに対する洞察が、異なる世界、異なる時代においても、類似した形で表現されているということか……)
この発見は、私に大きな勇気を与えてくれた。私のアプローチは、この世界においても、歴史的な裏付けを持つ「正当な」知恵である可能性があるのだ。
しかし、古代の叡智が、目の前の脅威――「憂鬱病」と、その一因と思われる「溜息の魔物」――に直接的な解決策を与えてくれるわけではなかった。羊皮紙には、精神的な調和を保つ方法や、内面の力を引き出す瞑想法のような記述はあったが、具体的な魔物への対処法などは記されていない。
やはり、現場を調査する必要がある。レオの情報とマイヤさんの証言が指し示す、古い水道橋へ。
もちろん、一人で乗り込むのは無謀だ。私には物理的な戦闘能力も、魔物に対抗する魔法もない。そこで私は、再び情報屋のレオに接触を図った。
「姉ちゃん、また俺に用かい? 今度は護衛でも頼むってか?」
路地裏でレオを見つけると、彼は相変わらずの軽口で迎えた。
「護衛、というわけではないけれど……。古い水道橋の調査に、少し付き合ってほしいの。あなたは、あの辺りの地理や噂に詳しいでしょう?」
「はぁ? 調査ぁ? だから、危ねえって言っただろ!」
レオはあからさまに嫌な顔をした。
「もちろん、報酬は払うわ。それに、魔物に近づくつもりはないの。ただ、周辺の状況を見て、何か手がかりがないか探りたいだけ」
私は懐から、けして多くはないが、彼にとっては無視できない額であろう銅貨を見せた。
レオは銅貨と私の顔を交互に見比べ、やがて大きなため息をついた。
「……ったく、仕方ねぇなぁ。面白そうな姉ちゃんが野垂れ死にするのも、寝覚めが悪いしな。いいぜ、案内してやるよ。ただし! 絶対に俺の言うことから離れるなよ? 危なくなったら、すぐに引き返す。それでいいな?」
「ええ、約束するわ」
こうして、私はレオという心許ない(しかし、いないよりは遥かにましな)ガイドを得て、問題の古い水道橋へと向かうことになった。
再び訪れた街の西の外れ。前回よりもさらに奥へと進むと、空気は一層重くなり、不気味な静けさが支配していた。崩れかけた水道橋の巨大な影が、威圧感を持って迫ってくる。
「……ここだ。例の水道橋」レオが声を潜めて言った。「最近は、物好きな奴でも寄り付かねぇよ」
「すすり泣くような声が聞こえるというのは、どのあたりかしら?」
「さあな。日によって違うって話もある。けど、特にあの……橋脚の影になってるあたりが怪しいって噂だ」
レオが指差す先は、水道橋のアーチの下、深い影が落ちている一角だった。そこだけ、他よりもさらに空気が淀んでいるように感じられる。
私たちは、一定の距離を保ちながら、慎重に周囲を観察した。地面には、動物の骨のようなものや、意味不明な模様が描かれたような痕跡が散見される。そして……微かに、本当に微かにだが、風に乗って、すすり泣きとも溜息ともつかない、不快な音が聞こえてくるような気がした。
(……これは……!)
音そのものよりも、それは一種の精神的な「ノイズ」に近いものだった。聞いていると、胸の奥がざわざわとし、理由のない不安感や、気分の落ち込みが誘発されるような……。
「……姉ちゃん、聞こえるか?」レオも気づいたようだ。彼の顔から、いつもの悪戯っぽい笑みが消え、緊張が走っている。
「ええ……。これが、溜息の魔物の影響……?」
私は意識を集中し、その不快な「音」の質を分析しようと試みた。それは、単一の音源から発せられているというより、まるで空間全体が不協和音を奏でているような、奇妙な感覚だった。
(これは、特定の周波数か、あるいは魔力的な波動によるものか? 人の精神の、最も弱い部分に直接響き、ネガティブな感情を増幅させるような……。マイヤさんが言っていた「おかしくなった気がする」というのも、無理はない)
古代の羊皮紙には、「外界からの不調和な響きが、魂の琴線を乱すことがある」といった記述があった。もしかしたら、これのことなのだろうか?
さらに何か手がかりはないかと、周囲を観察していた時、私はあることに気づいた。水道橋の特定の石材に、他とは違う、奇妙な黒い染みのようなものが付着しているのだ。それは、まるで煤のようにも見えたが、何か有機的な粘り気を持っているようにも感じられる。そして、その染みが集中している場所ほど、不快な気配が強い気がした。
「レオ君、あれは何かしら?」
「ん? ああ、あの黒いのか? さあな、ただの汚れじゃねえか? 気味悪いけどよ」
私は懐から、ドルガンにもらったペーパーナイフを取り出した。炎紋鋼で作られたそれは、ただの金属ではない、特別な力が宿っているような気がしていた。試しに、ナイフの先端を、その黒い染みに近づけてみる。
すると、ナイフの表面に浮かぶ焔のような紋様が、微かに、本当に微かにだが、光を放ったように見えた。そして、ナイフに触れた部分の黒い染みが、僅かに霧散した……ような気がした。
「……!?」
「おい、姉ちゃん、何してんだ! 危ねえ!」
レオが慌てて私の腕を引いた。その瞬間、水道橋の影の奥から、先ほどよりもはっきりと、甲高い、すすり泣くような音が響き渡った! それは、明確な敵意と苦痛を含んだ音だった。
(反応した……! やはり、あの黒い染みは、魔物と関係がある? そして、このナイフの力が、それに影響を与えた……?)
「やべえ! 逃げるぞ、姉ちゃん!」
レオは私の手を掴むと、脱兎のごとく走り出した。私も彼に引かれるように、水道橋から離れる。背後から、なおも不快なすすり泣きが追いかけてくるようだった。
安全な場所まで戻り、二人で肩で息をする。
「……ったく、だから言ったんだ! 何なんだよ、今の!?」レオが顔面蒼白で私を問い詰める。
「ごめんなさい、レオ君。でも、わかったことがあるわ」私は息を整えながら言った。「あの黒い染み……あれが、魔物の本体か、あるいはその影響を受けた痕跡かもしれない。そして、それを浄化する方法が、もしかしたら……」
手の中のペーパーナイフを握りしめる。ドルガンの打った炎紋鋼。それは、単なる金属ではなく、鍛冶師の魂と、あるいは古代の叡智と繋がる、特別な力を持っているのかもしれない。
だが、ナイフ一本で、あの広範囲に及ぶであろう汚染と、魔物本体に対抗できるとは思えない。もっと根本的な対策が必要だ。
そして、あの魔物の反応……。私たちがその存在に気づき、干渉しようとしたことに、明確な敵意を示した。これは、単なる自然現象ではない。知性……あるいは、悪意を持った存在が関与している可能性が高い。
憂鬱病の背後に潜む脅威は、思った以上に具体的で、危険なものだった。私は決意を新たにした。この問題を解決するために、私はもっと多くの知識と、そして協力者が必要になるだろう、と。




