第3章2節:神殿の門前と古い知恵
翌日、私はマイヤさんのことが気になりつつも、まずは情報収集を続けることにした。憂鬱病に対して、既存の権威である神殿がどのように認識し、対処しているのかを知る必要があると考えたからだ。
リンドブルムの中央区に位置する大神殿は、街で最も大きく、荘厳な建物だった。豊穣と慈愛を司る女神を祀っており、多くの市民から信仰を集めている。病気の治癒や心の平穏を求めて訪れる人も少なくない。
重厚な扉をくぐり、静謐な空気が漂う内部へと足を踏み入れる。高い天井、ステンドグラスから差し込む柔らかな光、そして微かに漂う香の匂い。その荘厳な雰囲気は、人々の心を落ち着かせる効果があるのだろう。
私は受付らしき場所にいた若い神官に声をかけ、病気の治癒祈願や相談を担当している部署、あるいは責任者に取り次いでもらえないかと尋ねた。
「近頃、街で流行している『憂鬱病』について、何かお話を伺えればと思いまして」
私の言葉に、若い神官は少し眉をひそめた。
「憂鬱病、ですか……。そのような俗称で呼ばれる症状について、神殿としても憂慮しております。しかし、それは個々人の信仰心の不足や、あるいは不浄なものによる影響と考えられます。女神様への真摯な祈りと、規則正しい生活、そして神殿への寄進こそが、心を清め、病を退ける道でございます」
予想していた通りの、模範的な回答だった。個人の問題、あるいはオカルト的な原因に帰結させ、具体的な対策よりも、信仰による解決を強調する。
「神殿では、その……憂鬱病に苦しむ方々に対して、何か特別な祈祷や、あるいは相談のようなものは行っておられるのでしょうか?」
「もちろんです。神官長様をはじめ、我々神官は、悩める子羊たちの声に耳を傾け、女神様への執り成しの祈りを捧げております。しかし、最終的に救われるかどうかは、本人の信仰の深さ次第……」
やはり、彼らのアプローチは、私が目指すものとは根本的に異なるようだ。心理的なメカニズムや、ましてや魔物のような外部要因の可能性は、考慮されていない、あるいは意図的に無視されているのかもしれない。
(これでは、マイヤさんのような状態の方を救うのは難しいだろう。信仰心が揺らいでいる、あるいは信仰を持つこと自体が困難な状態にある人に、「信仰が足りない」と言っても、さらに追い詰めるだけだ)
私は丁重に礼を述べ、大神殿を後にした。既存の権威に頼ることはできない。独自の道を切り拓くしかない、という思いを強くした。
大神殿からの帰り道、私はふと、先日レオが話していた「古い水道橋」の方向へと足を向けてみた。直接近づくつもりはない。ただ、遠目からでも、その場所の雰囲気を感じておきたかったのだ。
街の西の外れ、旧市街に近いエリアまで来ると、空気は淀み、建物の荒廃も目立ってくる。人通りもまばらになり、どこか陰鬱な雰囲気が漂っていた。そして、視界の先に、巨大な石造りの構造物が見えてきた。あれが、古い水道橋だろう。
今はもう使われていないその水道橋は、風雨に晒され、所々が崩れかけていた。蔦が絡まり、苔むしたその姿は、まるで忘れられた時代の巨人の骸のようだ。そして、その周辺だけ、妙に空気が重く、冷たく感じられる気がした。
(……確かに、良い雰囲気ではないな。長年放置された廃墟特有の陰気さだけではない、何か……精神にまとわりつくような、不快な気配がある)
アルバート・ワイズマンとしての経験は、場所が持つ「気配」のようなものを、単なる迷信として片付けることを許さなかった。環境が人の心理に与える影響は大きい。そして、もし本当に「魔物」がいるのだとしたら……。
長居は無用だ。私は早々にその場を離れ、こむぎ亭へと戻ることにした。
店に戻ると、母が少し興奮した様子で私を迎えた。
「セイラ! ちょうど良かった。お客様よ。あなたに会いたいって」
「私に、ですか?」
店の中には、一人の老婦人が椅子に座って待っていた。白髪を上品にまとめ、知的な光を宿した瞳を持つ、穏やかな雰囲気の女性だった。身なりは質素だが、どこか品格が感じられる。
「あなたが、セイラさんね? はじめまして。私はエリアーデと申します。少し、お話しできませんこと?」
エリアーデと名乗る老婦人は、柔らかな微笑みを浮かべて言った。
私は彼女を「こころの小部屋」へと案内した。彼女は相談者というよりは、何か別の目的があって訪ねてきたようだった。
「実は、先日、鍛冶屋のドルガンさんから、あなたのお噂を伺いましてね」エリアーデは切り出した。「あの方が、随分と穏やかになられた、と。そして、あなたが、とても不思議な方法で、彼の心のわだかまりを解きほぐした、とも」
「ドルガンさんから……」
「ええ。それで、興味を持ちまして。……実は私、若い頃、このリンドブルムの図書館で、古い文献を整理する仕事をしておりましたの」
図書館の司書だった、と?
「その中で、偶然、今はもうほとんど忘れられてしまったような、古い時代の記録に触れる機会がありましてね。それは、魔法とは違う方法で……人の心を癒したり、調和させたりする技術について書かれたものだったのです」
私は息を飲んだ。忘れられた、心を癒す技術……?
「その文献によりますと、古代には、『魂の対話師』と呼ばれる人々がいたそうです。彼らは、特別な力や魔法を使うのではなく、ただ深く相手の話を聞き、共感し、適切な問いかけをすることで、人々が自ら答えを見つけ出す手助けをしていた、と……。なんだか、あなたのお話と、少し似ているような気がしませんこと?」
エリアーデの言葉は、私の心に大きな衝撃を与えた。魂の対話師……。それは、私が前世で培ってきたカウンセリングの技術そのものではないか?
(偶然……? いや、これは……。私が持つ知識が、この世界にも、かつて存在したということなのか? あの「忘れられた神殿」の記録とも繋がる……?)
「その文献は、今も?」
「残念ながら、図書館の火災で多くが失われてしまいまして……。私の手元にも、ほんの断片的な写ししか残っておりません。でも、もしご興味がおありなら……」
エリアーデは、持っていた小さな革袋の中から、羊皮紙の束を取り出した。それは明らかに古いもので、文字も擦れて読みにくい箇所が多い。
「これは、私が個人的に書き留めておいたものです。古代の文字で書かれている部分も多いので、解読は難しいかもしれませんが……。あなたなら、何かを感じ取れるかもしれないと思いまして」
私は震える手で、その羊皮紙の束を受け取った。そこに書かれている文字は、確かに現代のリンドブルムで使われているものとは異なっていたが、いくつかのシンボルや図形には、不思議と見覚えがあるような気がした。前世で学んだ、集合的無意識や元型の概念に通じるものが……?
「ありがとうございます、エリアーデ様。大変、貴重なものを……」
「いいえ。もし、この古い知恵が、今のリンドブルムを覆う憂鬱な影を払う一助となるのなら、私としても嬉しいのです。……あなたのような方が現れるのを、どこかで待っていたのかもしれませんわ」
エリアーデは穏やかに微笑むと、静かに立ち上がり、部屋を後にした。
私は一人、手の中の羊皮紙を見つめていた。予期せぬ出会いと、託された古い知恵。それは、憂鬱病という困難な問題に直面し、自身の限界を感じ始めていた私にとって、一条の光のように思えた。
私の知識は、異世界からの借り物ではなく、この世界にも根ざした、失われた叡智の一部なのかもしれない。だとすれば、私の進むべき道は、間違ってはいない。
しかし、同時に新たな疑問も生まれる。なぜ、その叡智は失われたのか? そして、この古い知恵は、あの水道橋に潜むかもしれない「魔物」に対して、どう役立つのだろうか?
謎は深まるばかりだ。だが、確かな手がかりを得たことで、私の心には、新たな決意と、わずかな希望が灯り始めていた。




