第4章 本気、桃の木、山椒の木
「落語やってみる?」
突然の言葉に、私は思わず目を瞬かせた。
「あの……なんで、そんな話になるんですか?」
「いや、ただの思いつき」
川沿いのベンチに座り、可志楽さんは足を投げ出しながら言った。
「ほら、あなたの話の聞き方って、ちょっとヒトと違うじゃん。噺のオチよりも、その途中の流れとか、言葉選びに反応するし。話す側に立ったら、案外面白いかもよ?」
「無理です」
即答すると、彼は「早っ」と笑った。
「そんなにすぐ否定しなくてもいいのに」
残念そうに言う彼の真意を、私は掴みあぐねていた。
すぐに否定してはマズかったのだろうか。
「だって、私が人前で話せるわけないし、可志楽さんみたいに言葉を操ることなんて……」
「俺が教えようか?」
「え?」
さらっと言われたその言葉に、心臓が跳ねる。
「本気じゃないですよね?」
「さぁね……」
彼は煙に巻くように笑いながら、ベンチに肘をついた。
「まぁ、俺の落語を好きでいてくれるなら、それでいいけど…」
「……好き、です」
「ん?」
「可志楽さんの落語が……好きです」
言葉を選びながら言ったのに、思った以上に声が震えた。
痒くなりかけた喉を押さえる。
彼はしばらく私を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「ありがとう。でも、それ以上は言わない方がいいよ」
「……どうして?」
「だって、あなたの言う"好き"が、どこまでを指すのか、俺にはわからないから」
私は言葉を失った。
「俺の落語が好きなのか、俺という人間が好きなのか。あなたがどっちを言いたいのかによって、俺の返事は変わる」
「それって……」
「だから、深入りしないほうがいいって、言ったでしょ?」
可志楽さんは軽く伸びをすると、立ち上がった。
「そろそろ行くわ。また落語会、来なよ」
「……はい」
そう返事をするのがやっとだった。
彼は、私が何かを言い足すより早く、あっさりと去っていった。
その背中を見ながら、私は自分の胸の中にある感情を確かめる。
もう、わかっている。
可志楽さんの問う「どっち」に、即答できるくらいに。
そして、私が本当に言いたかった言葉が、咳を追い越して飛び出しそうなくらいに。
でも、それを口にしたら、この関係は終わってしまう。
だから私は、言えない。
——本気になってはいけない。
でも、すでに手遅れのような気がしていた。