第1章 口先ばかりではらわたはなし
「おい、大丈夫か?」
目よりも先に復活した耳が、男の声を聞く。
私は鈍い痛みが走る頭を持ち上げ、なんとか焦点を見知らぬ男の顔に合わせた。
いや、見知らぬわけじゃない。
「……え? 立山可志楽さん!?」
「あっ、正解。でも今は俺、高座の上じゃないんだから、そんな顔で見られると困るんだけど」
「あっ、すみません…」
慌てて視線をそらす。
私は何が起こったのかを思い出そうとした。
足元には転がったスマホ。画面には再生中の落語アプリが映る。
そうだ——私はイヤホンをつけたまま歩いていて、可志楽さんの落語に夢中になりすぎ、段差に気づかず見事に転んだのだった。
「こんな所で……恥ずかしい…」
「まぁ、派手にすっ転んでたからね。落語家ならネタになるけど、落語家……ではない?」
「……違いますね。好きですけど……ッ…ゴホッ」
せっかく落語の話をするチャンスなのに、咳こんでしまって言葉が出ない。
「ごめんなさい!えっと、マスク、マスク…」
心の底から何かを訴えたいと思うと、こうなる。
医者には神経性アレルギーと言われ、喉の蕁麻疹みたいなものらしいが、不便極まりない。
「いいよ、別に」
悲しいくらいに、可志楽さんは何も感じていないらしい。
「で、俺の落語を聞いてたんだ?」
「えっ?」
「イヤホン落ちてるよ。ってことは、俺の落語に聞き惚れて、転んじゃって、消えたと思った俺が目の前に現れた……ってことでOK?」
「ち、違います!」
「あっはっは!でも、俺の落語で転んだ人なんて、初めてじゃないか?ある意味、記念すべきリスナーだよ」
私は顔を真っ赤にして、慌てて立ち上がった。
「私、行きます!」
「おっと、お礼は?」
「えっ?」
「一応、助けたんだからね。いや、待てよ…?俺の落語のせいで転んだってことは、俺にも責任があるかもしれない」
彼はいたずらっぽく笑いながら、スマホを拾い上げて手渡してくれた。
「えっと……どうしましょう?」
「そうだな…。じゃあ、お詫びに今度、落語聴きに来るってのは?」
私はドキリとした。
「……いいんですか?」
「もちろん。途中で転ばれるのはこっちも不本意だから。で、感想聞かせてよ」
「わかりました」
私は、恥ずかしさを紛らわせるように手短な挨拶をし、そそくさとその場を後にした。
この出会いが、後に私の人生を変えてしまうものになるなんて、そのときはまだ考えもしなかった——。