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三眼男八災六難恋路敵  作者: いちめ
3/9

女難

「陽君、ハル君、おつかいに行ってきてー」

 陽君は僕、ハル君は陽Ⅹ。母の中では微妙に差があるらしいが、いずれにしてもリアル作業は僕の領分。仕事をしていても休日だけは晩御飯をきちんと作ることを自分に課している母が携帯片手にテレビを見ていた僕に声をかけたのは夕方も六時過ぎの話である。

「味噌とついでにティッシュも切らしてるからー」

「朝のうちに婆ちゃんに言っとけよ」

「年寄りに重たいもん持たせる気?あんた自転車でちゃっちゃと行って来れるでしょ」

 これ以上抵抗すると仕事をして家事もするのは大変だとか、どうせくだらない物を見てるだけだとか中間試験の結果がどうとかが始って大怪我をするので、早めに腰を上げた。親父もこの母には抵抗するのをやめている。故に母は我が家の法律なのである。

 スーパーまでは自転車で一〇分程の距離だが、市立病院前の坂はしんどい。五個パックのボックスティッシュ(母の指定で特売品)と味噌を不平顔で自転車のカゴに放り込んで見慣れた顔に気付いた。

 常本小春だった。

 単にクラスが同じというだけの相手。だけど彼女は居場所を持っている。婆ちゃんとの会話で顔が浮かんだその一人だった。僕があのようだったならと思った子。だからすぐには背を向けず、彼女を眺めてしまった。

 常本小春は滅多にいないような美人ではない。無造作に結ったポニーテールの所為で下膨れ気味の頬が目立ってしまうし、気を抜けばふくよかになってしまうんだろうなあという体型も一般的な日本人だ。大きいけれど少し垂れている目も惜しい感じがする。何処にでもいそうな普通に可愛い女の子だ。だけど彼女は周りの人間の発言や趣味や予定をよく覚えていて、機会を見つけて話をふる。話をふられた側が戸惑って返答が遅れるような、些細な事を。自分は大切に思われているのではないかと錯覚を覚えるようなちょっとした事を。残念ながら彼女は誰にでも平等に寄り添う。そんな事は大した事ではないという風に。仲良しグループの中でもクラスが同じだけの僕やその他大勢の前でも。だから誰も彼女を退ける事が出来ない。いや、したくない。常本小春は何処にいても常本小春だった。その常本小春が居た。

 両手にビニール袋をぶら下げて常本小春は自転車を探していた。袋からは牛蒡にネギと大根が飛び出している。卵のパックがビニール袋を破りそうになっているし、肉や魚、豆腐だのパンだの、どれだけ家族がいるんだ?という買い込みようである。声をかけるべきかどうか迷ったのは何も学校の外で遇ったのが気恥ずかしかった訳じゃない。春の陽射しのような、南風のようないつもの彼女とはあまりにも違ったから。

 常本小春は泣いていた。

 顎がへこむほど唇を引き結んで、見開いた目から涙がこぼれるのもそのままに鼻まで垂らして一杯の買い物を運んでいた。頬には乾いた涙の筋が何本も出来ていた。多分そのままスーパーに来て、そのまま買い物をしてきたのだ。その間、誰も彼女に声をかけられなかったろう。泣いてなんかいないんだからというその姿勢に気おされて。僕は少しばかり長く彼女を眺めていたのだと思う。彼女の方で僕に気付いた。

「あ…三井君…」

 泣いているのを見られた彼女が逃げ出したりしなかったから、僕は聞かずにはいられなかった。

「…何か…あった?」

 ぐっと一層唇を捻じ曲げたかと思うと常本小春は声を上げぬまま、乾きかけた頬に再び涙を流した。

「い、今、病院…お、お母さんが…」

 それだけ言って初めて俯いた。漸く察した。このスーパーの側には市立病院がある。きっとお母さんの具合が悪いのだ。常本はそこへ寄った帰りなのだろう。大量の買い物もそういう事。お母さんが倒れたのならばおそらく彼女が主婦代わりを勤めているのだ。これまでそんな事情は欠片も感じなかった。あんなにいつも笑っていられるのだから、彼女は全てに満たされているのだと思っていた。違った。常本小春が赤の他人を気遣うのは余裕があるからそうしているのではなかったのだ。今日は病院で何かあったのだろう。それでも彼女は他の家族のために悲しみに暮れている訳にも行かず、いつものように買い物をして、いつものように晩御飯の支度をして、明日も変わらず登校するのだ。そして、彼女は普通に笑って見せるのだろう。常本はジャアジャアと涙を流す。僕はジャアジャアがボロボロになってぽたぽたになって行くのを黙って見ていた。生憎、きちんとアイロンのかかった清潔なハンカチなんて気の利いた物は持っていない。五個パックのボックスティッシュのビニールを破って一つを開けて差し出した。

「え?」

 買い物客の自転車が列をなす中、ボックスティッシュを差し出された事に戸惑って、その可笑しさに涙が途切れた。常本はへへへっと笑ってティッシュを受け取ると盛大に洟をかんで、一つだけ溜息をついた。

「母がそこの市立病院に入院してるんだけど、お医者さんが…もう…ダメかもって…」

 何も言えなかった。またしゃくり上げそうになるのを堪えてティッシュを抜く。僕はべそべそと俯く彼女を待っていた。幾らでも待つつもりだった。そして彼女が落ち着くのを見届けて僕は言った。

「あ、あのさ、常本、荷物重すぎ」

 いつだって周囲の一人一人を大切にして、気を配って、それでいて自分の抱え込んだ物は微塵も見せないなんて、荷が勝ちすぎる。だから言った。今まで彼女の事情が見えていなかった事を恥じた訳じゃない。同情なんかじゃなかった。この子が泣いてもいい場所を作りたい。僕の中に。そう思った。いつも自分の居場所を探していたけれど、そうではなくて自分が居場所になりたい。そしてそうあれる自分でありたい。誰かのではなく、彼女の。

「ぼ、僕でよかったら一緒に持つよ」

 僕の前ではいつも笑って見せなくてもいい。辛い事があるのなら一緒に居ることは出来るから。いいや、僕にそうさせてくれませんか。彼女はきょとんと顔を上げた。

「いいの?助かる」

 即答に戸惑う。本当に良いの?僕で?と思いかける僕に常本はでかい買い物袋を差し出した。いや…そういう意味じゃなかったんだけど、とは言えず、そのまま受け取った。

「自転車に乗り切れなくて困ってたの。遠いけど本当に良いの?」

「…用事とかないし。大丈夫」

 勝手に玉砕。些細?な行き違いはあったが、M市の反対側にある彼女の家まではその距離の分イイ時間を過ごす事が出来た。「本当にありがとう。ちょっと上がっていく?」と誘われたけれども、ただいまの声に「おなかすいたー」と幼い声と足音が二つ被さるのに慌てて背中を向けた。弟と妹まで居るらしい。「また明日!」常本が玄関に入りながら微笑む。また明日。自転車にまたがって軽く手を上げる。陽は暮れきっていた。買い物如きに随分と寄り道をしたもので、きっと母から文句を言われるのだろう。が、それを思い出してもはちきれそうな気分は失われない。ここで今日が終わりならイイ感じのオープニングだったのに…。

「あの「俺でよかったら一緒に持つよ」って発言は比喩表現だったんだよな?」

 僕の方の事情がそれを許さなかったりする。生まれつき僕に居場所を持っている奴が胸ポケットの端末から囁いた。

「人生における負担を分かち合う事で共に向上しようという誘いであったのだろう?」

 …説明するな。

「これって物の本で読む、恋愛感情って奴?」

 …何読んでるんだ?

「あれ?否定するの?でもさ、常本小春を視界に捕らえた時の心拍数の増加とか、常本小春と話している間のアドレナリン値の上昇は見過ごせないね。セロトニンの値も…」

 僕の馬鹿!どうしてプライベートモードにしてセンサーを切っておかなかったんだ!

「これって常本小春を生殖相手として…」

 続ける陽Ⅹを遮った。

「分かった!認めます!そうですよ。好きです。惚れました。これでいいか!」

 半泣きの僕に陽Ⅹは機械の癖に含み笑いを漏らした。

「だよなー」

「ってか、お前には関係ないだろ!」

「そんな事ないぞ。恋愛は人生の一大事だとあらゆる書物に書かれている。人間存在を理解し、それに近づくためには必要不可欠だろう。新しい経験を分かち合おうぜ」

 ……誰かに理解されたいなんてこの先絶対思わない。

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