魔女との取り引き
「藤巻さん、なんかありました?」
PCに向かって資料を作成していた藤巻は、隣に座る女性社員の言葉でキーボードを打つ手を止める。
「いえ、特には」
隣の席ではありながら、藤巻はこの女性社員の事をよく知らない。処理のスピード感とか、正確さとか、発想力とか、言語化力とか、そういう仕事の上で必要な能力につては粗方把握しているつもりだが、それ以外の事は、例えば下の名前すら覚えていない。
早々に会話を切り上げるつもりだったが、女性社員は腑に落ちないようで、眉間に皺を寄せながら藤巻の横顔を睨んでいる。
「うーん、なんかここ最近の藤巻さん、違うんだよなぁ。めっちゃ失礼ですけど、人間味が出てきたというか……」
歯に衣着せぬ発言に藤巻は面食らう。
「はぁ、ありがとうございます」
「ごめん、気わるくした? お詫びの印にコーヒーもってくるから、許して」
女性社員は笑いながら胸の前で両手を合わす。そして事務室の隅に置かれたディスペンサーから紙コップにコーヒーを注ぎ、藤巻の手元に置いた。
「いつもブラックで飲んでたよね」
「はい」
「私ってなかなかの観察眼を持ってんの。カレシが仕事で凹んでるのとか、隠してたって一瞬でわかるかんね」
「すごいですね」
コロコロと表情を変えながら話す女性社員の様子に、藤巻の頬も自然と緩む。隣に座っていたのに、こんなにおしゃべりな女性だったとは今まで気が付かなかった。
「そんな私の直感が、外れるわけないはずなのよね……」
そう言った彼女は、腕を組んでうーんうーんと何度も唸る。そして急に目を見開くと、その目を細めて藤巻を見た。
「あー、カノジョ、出来たんでしょ……?」
「……違います」
藤巻は否定する。
* * *
宮内アヤカとの小旅行から二週間が経った。先週の土日は普段通りの家事をして、宮内の官能小説を眺め、先日思い浮かんだメロディーをコードに落とし込んだ。
鼻歌で紡ぐそのメロディーは、あの日思い浮かんだものと同じもののはずなのに、ブリキで組み立てたみたいにどこか作り物めいていた。ここから先は、自分の演奏技術と、作詞で、どこまでこのメロディーに命を吹き込めるかだ。
文章を生業とする宮内に、自分の書いた詞がどう評価されるかわからない。しかし藤巻は、あの時に胸の奥から湧き上がった感情を、ただ真摯に文章へと変えていく事しか出来ない。
金曜の夜、部屋を煙草の匂いで満たしながら、藤巻はノートを言葉で満たしていく。強い言葉、弱い言葉、優しい言葉、悲しい言葉。その一つ一つを吟味し、並べ替え、推敲し、最も自分の感情に近い一文を作り上げていく。
数行組み立てたところで、藤巻の脳は限界に達した。
自分の脳みそは皿の上に忘れられたパンのように、カピカピに衰えていた、その悲しい事実に落胆する。学生時代であれば、一晩中言葉をこねくり回していても疲れを感じることはなかったはずだ。
冷蔵庫から缶ビールを一本取り出して、一気に三分の一を流し込む。アルコールでふやかせば、この固まってしまったパンも多少は柔らかさを取り戻すような気がした。
こんな苦しみを、宮内アヤカは広くて暗い部屋の中、繰り返していたのだ。
しかも表現すべき感情は、自分の心を刃物で傷つけるような、途方もない悲しみ。
藤巻はその狂気じみた行動に、改めて恐怖を感じた。
人が、そんな悲しみで満たされた冷たい沼に、いつまでも浸かっていられるはずがない。いずれ必ず、全身を巡る温かな血を止めさせ、内臓を壊死させるに違いない。
誰かが彼女に手を差し伸べ、引き上げてやらなければならない。
自分はただその役目を買って出ただけ。
それ以外、何もない。
藤巻はそう自分に言い聞かせた。
* * *
翌日、藤巻は宮内の家を訪れた。
先日の小旅行の際に宮内から渡されたお金は、高速代やガソリン代を差し引いても大半が残ってしまった。それを返すというのが、今回の訪問の名目だった。
玄関ドアから顔を出した宮内は見るからに疲弊していた。眼鏡の奥の目は半開きで、手入れされていない髪はだらしなく跳ねていた。
「どうしたんですか?」
テーブルに向かい合わせで座り、先日と同じ賞味期限スレスレのクッキーを眺めてから、藤巻は尋ねた。
「いや、ちょっと編集さんと意見が合わなくてね」
頬杖をついた宮内は、藤巻の斜め後ろの壁にかかったカレンダーの数字を眺めている。黒と青と赤に色分けされたそれらは、今の彼女にとってなんの違いもない。毎日が日曜日であり、毎日が平日だ。
「大変ですね」
よく知りもしない世界の事に口を出すのは野暮だろうと、藤巻は当たり障りのない労いの言葉を述べる。
「私、嫌われているから」興味なさそうにそう呟くが、指先は内面の苛立たしさを天板に打ち付けている「大した実績もない官能小説家が、初めて書いた一般小説の売り方に文句を言い出したら、そりゃ嫌われるよか……」
藤巻は返答に窮して愛想笑いを浮かべた。
電気ケトルの注ぎ口から湯気が立ち上り、スイッチの切れた音がする。宮内はそのお湯でいつものようにコーヒーを入れると、藤巻の前に置いた。
「私、面倒臭い奴だからなぁ」
「そうですかね」
「藤巻くんは、こんな私のところによく飽きもせずやってくるよね」
皮肉めいた宮内の言葉に、藤巻は口を噤む。彼女を元気づける一言が必要な場面だと思ったが、適切な言葉が思いつかない。顎に手を当てて、虚空を見上げる。
「もしかして、私のこと好きなの?」
予期せぬ言葉に、藤巻は虚空を漂わせていた目を宮内に向けた。彼女は悪戯っぽい視線を藤巻に向けていた。
「あ、いや、その」
藤巻は何も言えないまま、闇雲に視線を泳がせる。どこかの壁にでも、この質問に対する答えが貼られていて欲しかったが、当然そんなものはあるはずも無かった。
横目で宮内を見ると、必死で笑いを堪えているようだった。揶揄われたと気付き、藤巻は大きく深呼吸をして高鳴る鼓動を無理やり押さえ込む。
「お金を返しにきたんです」
「お金?」
「この前出かけた時に渡されたお金です」
「あー、あれは別にいらないって言ったじゃん。お金溜め込んでたってどうしようもないんだから」
「そういうわけにはいきませんよ」
「君、前にも言ったけど、泥棒のくせにほんと律儀だね」
「律儀とかじゃないです。男が、女性にお金を全額負担してもらうなんて、失礼じゃないですか……」
「藤巻くんは、私をちゃんと女として見てくれるんだ」宮内は嬉々として藤巻の言葉尻を捕える「なんか、ありがとね」
「……」
藤巻は顔を赤く染めて黙りこむ。
「ごめんごめん、からかいすぎた」
宮内は笑いながら、照れくさそうに頬を掻いた。その様子を見ながら、藤巻は少しばかり彼女の表情が明るくなったように感じていた。彼女が元気を取り戻せるなら、多少のからかいくらいは甘んじて受ける所存だ。
時計の音が大きく響く、広く静かな家。
頬杖をつきながら、乾いた時間を削り取るようにクッキーを咀嚼する宮内と、時の闇に魅入られるように黒いコーヒーを啜る藤巻。
「君はーー」宮内はクッキーを飲み込むと、コーヒーで唇を湿らせて言った「あの小説、売れると思うかい?」
「わかりません」藤巻は少し躊躇しつつも、その問いに偽りなく答える「でも、少なくとも俺は、感動しました」
「国民の多くが『透明な泥棒さん』だったら、ベストセラーになったかも知れないね」
宮内は嘲るように笑った。
そして、コーヒーをもう一口飲む。
「私は売れないと思う。私という個人に多少なりとも興味があるから、君はあの小説に感動してくれた。あれはフィクションの皮を被ったノンフィクションだよ。それも、あまりにも個人的な。でも、実際の私はしがない零細官能小説家さ。誰も私個人になんて興味ない」
吐き捨てるように宮内は言う。
藤巻はその世界のことがわからない。しかしなんとなく理解はできた。学生時代に出会った人の中には、プロを凌駕する腕前の奏者も何人かいた。でも彼等は今、この国の音楽業界に爪痕すら残せていない。
スポットライトが当たらなければ、誰も見つけてはくれない。広義で言えば、ほぼ全ての人々は透明なのだ。
「それじゃダメなんだ。私は自分の慰めのためにあの小説を書いたんじゃない。死んでしまった2人の存在を多くの人の心に突き刺して、絶対消えない傷跡にするため、私はこの感情を小説にしたんだ」
コーヒーカップを持つ右手に力がこもる。病的なほど痩せた手の甲に筋が浮かんだ。
「これは、西の森に住む魔女との取り引きなんだよ」
彼女の語る言葉には、術者自身をも墓穴に突き落とす、呪いのような響きがあった。
藤巻は致命的な何かを感じながらも、その何かを打ち消すような言葉を見つけられない。
時計の針は、追い立てるように単調な足音を響かせた。
* * *
「曲、作るって言ったの覚えてますか?」
玄関ドアの前に立った藤巻は振り返る。
柱に寄りかかり、思案するように足元を見ていた宮内は、藤巻の言葉で顔を上げた。
「覚えてるけど」
「今、曲に言葉をつけてます。実は、それを伝えたくて、今日はここに来たんです」
「そうなんだ」
宮内は笑う。
慈愛に満ちた笑みだった。
きっと彼女は、亡き夫や子供に、いつもこんな顔で笑いかけていたんだろうな。そう、藤巻は思った。
「楽しみにしてて下さいね」
「……うん」
何かを言い淀むような仕草の後に、宮内は頷いた。
なんの力も持たない、単なる泥棒の藤巻は、そんな彼女の承諾を信じるしかなかった。
後ろ髪を引かれながらも、藤巻は玄関ドアを開けて外に出る。あたりには既に宵闇が落ちつあった。
締まりかけたドアの隙間から手を振る宮内の姿が見える。藤巻は小さく頭を下げる。その直後、ドアは小さな音を立てて閉まった。
宮内の内と外、二つの空気が切り離されたような気がした。
外の空気はとても穏やかだった。一人の人間が消えかけの火に息を吹き込みながら、切実な願いを世界に向けて叫び続けていると言うのに、外の空気は呆れるほどに穏やかだった。
藤巻には、そんな世界があまりにも空虚で、残酷なように感じた。