そして心も色づいていく
日が沈み始める少し前、木々の影が長く伸びはじめた頃に遊園地へと戻ると、宮内アヤカはまだ芝の上に座り込んでいた。
かれこれ3時間はこの場所に座っていた事になる。
芝の上で昼食をとっていた家族はすでに消えていて、その場所では中学生くらいの姉妹がバドミントンに興じていた。
吹き抜ける風は、温かさを失いつつあった。
夕暮れ前の寂しさが、名残雪のように宮内の小さな背中に降り積もっているような気がして、藤巻は声をかけるのを躊躇する。
泣いているのかもしれない。
ふと、そんな想像が頭に浮かんだ。
数メートル離れた場所に立ち、靴底で足元の芝生をすり潰した。それは生命力に満ちていて、簡単にひしゃげるが、足を離せば再び立ち上がる。数分間の躊躇の後、ゆっくりと宮内に近づき、その隣に立った。
「寒くなってきましたね」
「そうだね」
そう言って顔を上げる宮内に、涙の跡などなかった。
きっと、それは随分前に流し尽くし、もう枯れ果てている。
宮内は立ち上がり、レジャーシートの裏地についた芝生を払い落とす。彼女が座っていた場所の芝は、彼女の心を全身で受け、悲しみに暮れるように俯いている。
宮内の背中にたんぽぽの綿毛が付着している事に気付き、藤巻はそれを右手で払うべきか迷った。
しかし、結局払うことはせず、その代わり先ほど買ったフェルト製の栞を見せる。
「これ」
「え、なにこれ?」
「プレゼントです。ラーメン屋のところで、売ってたので」
面食らった宮内は、レジャーシートを折りたたみながら、何度も角度を変えてそのフェルトの札を眺める。
「栞?」
「……いいの?」
「は、はい」
「そっか、じゃあ、ありがたく頂くよ」
宮内は困ったように笑うと、藤巻の差し出す栞を摘み、抜き取る。どことなく弱々しいその指先は、変わりゆく彼女の内面を書き出す柔らかな筆のようだった。
初めて会った彼女は、自分の感情を小説へとぶちまけていた。しかし今の彼女は、バケツを一杯に傾けながら、底に残った色水を一滴一滴落としているように見える。
フェルトに描かれた小さな月。
あの夜に窓の外に見えた巨大で妖艶な月とは違う、乾きかけの絵の具のような、艶もなく粗末な月だ。
「泥棒に、物をもらっちゃったよ」
栞をゆらゆらと揺らしながら、宮内は悪戯っぽく笑っていた。その毒の抜けたような笑顔が、消えかけの灯火のような声が、きっと本来の彼女の姿なのだ。
藤巻は、そう信じようとした。
* * *
遊園地のあった山を下り、海へと着いた頃には、夕陽は水平線へと吸い込まれつつあった。
住んでいる街へと帰る前に、宮内からの要望で国道沿いの海岸に寄り道する。舗装が行き届いた二車線の道を逸れ、砂利が目立つ細い道へとハンドルを切り、狭い坂を下っていくと、路肩にはえたイネ科の雑草を境に砂浜が広がっていた。
海開きはまだ先で、水温も冷たい。近隣から人が集まるにはまだ早く、近所から足を運ぶにも面白みがない、そんな忘れ去られたようなこの海岸には、単調に響く波の音以外何もなかった。
路肩に車を停めると、宮内は足元を気にしながら、砂浜へと足を踏み出した。ただ真っ白な、雲の上のような砂浜に、黒い影が一つ躍り出る。
藤巻も彼女の後に続こうとして、そこで気がつく。
目の前の景色に既視感があった。
「あの、写真の……」
藤巻の脳裏に、文庫本の間に挟まっていたあの写真が映し出される。妻と夫と子供、不幸な未来を知らない三人の家族が、道すがら撮影した一枚の写真。そして宮内が灰皿の中で燃やし、最後の最後に刻み込んだ幸せな記憶。
そんな思い出の場所に、今彼女はたった一人で、佇んでいた。
思えばあの遊園地も、彼女が亡き家族と行った思い出の場所だったのかもしれない。彼女が座り込んでいた芝生の上で、幸せな三人家族はレジャーシートを敷き、お弁当を広げ、笑い合っていたのかもしれない。
天界のように真っ白な砂浜を、後光のような夕日が照らしている。
もし、命を失ったものが辿り着く世界があるとしたら、それはきっとこんな感じなんだろうな、そう藤巻は思った。
そして、一人残された宮内は、先に辿り着いているであろう夫や子供を探して、その世界の深淵を覗き見ようとしているように感じた。
急に、駆り立てるような感情が、藤巻の中で湧き上がる。その感情に促されるまま、藤巻は運転席のドアを開け放つと、彼女の名を叫んだ。
「宮内さん!」
引く波が、藤巻の声を彼女へと届ける。
宮内は驚いた表情で振り返る。そして再び、名残惜しそうに夕日の沈み行く先へと視線を向ける。
示し合わせたように強い風が吹いた。
海を渡る中で、たくさんの生と、たくさんの死を蓄えた、生ぬるい風だった。
宮内の被っていた帽子が飛ぶ。
細い髪に夕日が透けて、金色に輝く。
それは、とても鮮やかな景色だった。
透明だった藤巻の心を、その色彩の飛沫が荒々しく染める。
メロディーが浮かんだ。
それは、とても懐かしい感覚だった。
まだ世を知らぬ学生だった藤巻は、ギターをかき鳴らし歌っていた。自分のメロディー、自分の色で、この世界を全て塗り潰せると思っていた。今思えば、それは幼さが生んだ万能感。でもあの時の自分は、きっと透明ではなかった。
再び、心が色付こうとしている。
自分の色がメロディーとなり、頭の中で反響していく。
それは風の流れのような、時の流れのような、とても自然な変化だった。だから藤巻は、少しの恐怖を感じながらも、その変化をあるがままに受け入れる。
「そろそろ、帰ろっか」
沈みかけだった夕陽は、一瞬で海へと消えていった。砂浜に落ちた帽子を拾い、平手で砂を払い落とした宮内は、唖然と水平線を眺める藤巻に歩み寄り、言った。
走り出した軽自動車は、細い道から再び国道に乗り、一般レーンから高速道路へと入る。
夜の闇をヘッドライトが照らし、わずかばかりの濃淡を生む。藤巻の目には、先ほどの夕日が焼き付いて消えなかった。目を瞑れば、すぐにでもあの場所に戻れるような気がした。
「今日はありがと」
暗い車内では、宮内の持つ輪郭はぼやけていた。世界との隔たりが崩壊し、概念的な存在となり、声だけがかろうじてこの世に踏みとどまっているような、奇妙な感覚を覚えた。
「行きたかった所には行けたし、考えるべき事もしっかり考える事ができた。今日得た答えは、きっとあの場所でなければ得られなかった」宮内はいつも、藤巻には理解出来ない事を言う。「だから、ありがと」
「どういたしまして」
当たり障りのないお返しの言葉。
それを最後に、車内には沈黙が降り積もりはじめる。
何か言わねばならないと、藤巻はぼんやりと考える。このまま宮内の心を降りしきる沈黙で埋めてしまったら、自分の中に芽生えた鮮やかな花の苗も、きっと花を咲かすことなく枯れてしまう。
「曲を、思いついたんです」
砂浜に小石を落とすように、藤巻は言う。
「曲?」
聞き返す宮内の言葉には答えず、藤巻は続ける。
「多分、すごくいい曲です。聴いた人の心が晴れて、悲しみを忘れて、思わず口ずさんでしまうような」
今度は、宮内は聞き返さなかった。
「完成したら、宮内さんに聴いてもらいたい」
前を走るトラックを追い抜こうと、藤巻はアクセルを踏み込んだ。中央分離帯の反射板が、彗星のように後方へと流れていく。
「うん、楽しみにしてるよ」
その彗星に願いを囁くように、宮内は言った。