色褪せた遊園地と、色づく春
咳き込むようなエンジン音を響かせ、軽自動車が田園を貫く国道を抜けていく。
フロントガラスから差し込む昼前の日差しを受けた宮内アヤカの頬は、路肩に溶け残った雪のように白く際立つ。
彼女は無言のまま、パワーウインドウを少しだけ開けた。
埃の混じった青草と野花の匂い。
いわゆる春の匂いが車内いっぱいに広がった。
「季節は、こんなにも春だったんだね。ずっと引き篭ってたから気付かなかったよ」
しみじみと呟く何度目かの言葉。
藤巻健吾は苦笑いを浮かべながら、自分の左側に広がる違和感しかない光景をなんとか日常に落とし込もうと、本日何度目かの深呼吸をした。
* * *
宮内の家の前に、ハザードランプを点けて車を停める。
普段なら近所の好奇の目を避けるためにコンビニ駐車場に車を停めるのだが、やはり今回は勝手が違う。迎えに来た立場なのに、宮内をコンビニまで歩かせるのはなんだか失礼なような気がする。
それに、あの細くてひ弱な見た目の宮内が、自宅からコンビニまでの十数分を歩けるのかどうか。それが荒唐無稽な懸念だとわかってはいるが、藤巻は案ぜずにはいられなかった。
あの宮内アヤカに、この春の日差しは強すぎるような気がした。
しかし、そんな心配など当然ながら杞憂だった。玄関ドアを開けて陽の光の下に歩み出た宮内は、黒い煤になって崩れ落ちることも、光の粒になって舞い上がる事もなく、普段通りの少しひねた笑顔を見せていた。
つばつきの帽子を被り、薄黄色の薄手のセーターと、黒っぽいワイドパンツを履いている。今まで目にしたダボダボのパジャマや、飾り気のないロングTシャツと異なり、その他所行きの服装は、藤巻の中の宮内アヤカ像を新たなものに塗り替える。
彼女は幻想と狂気に縁取られた文章の精霊などではなく、生身の人間なのだ。その当たり前の事実に今更ながら思い至る。
宮内が助手席に乗り込む。
タバコの臭いで満たされた軽自動車の車内に、香水なのか整髪料なのか化粧品なのかわからない、甘くて薬っぽい匂いが混ざり込む。
「遠出するとは言ってましたけど」藤巻は彼女の横顔をジロジロと眺めてしまう自分を律し、努めて平常心で問いかける。「あの、どこに行けばいいんですか?」
「えっと、春日ヶ丘サンシャインパーク」
「え、どこですかそこ?」
聞いた事がない。いや、そこそこ知名度があるテーマパークかもしれないが、遊園地にほんの少しの関心もない藤巻にとっては、記憶に留める価値もないどうでもいい情報だった。
「◯◯県にあるちょっとした遊園地だよ」
「ああ、そこそこ距離ありますね」
「大変だったら、高速乗ってもいいよ。あ、一応これ渡しとく。高速代込みで」
そう言って宮内は財布から万札を数枚取り出した。
「いや、そんなにかからないですよ」
「いいよ。運転手代とか、ガソリン代とか、色々あるじゃん」
「それにしたって余りある……」
「気にしなくていいって。もう、お金とか溜め込んでても意味ないし」
「はあ?」
「じゃあ、余ったら返す。それでいい?」
「あ、はい」
そんなやり取りの後、藤巻はゆっくりと軽自動車のアクセルを踏んだ。坂を転がるボールのように、車は住宅街の丘を下っていく。
途中、いつもお世話になっているコンビニで飲み物を買う。紅茶のペットボトルとチョコレートが入ったコンビニ袋をぶらぶらと揺らしながら、宮内は再び助手席に乗り込んだ。
コンビニ正面の灰皿の側で、藤巻は煙草に火をつけた。動揺する自分の心を落ち着かせるには、目の前の小さな火に意識を集中させるのが最も効果的だった。
その火のさらに先、自分の車の方へと焦点を合わせると、フロントガラス越しにこちらを眺めていた宮内と目が合う。
反射的に目を逸らしてしまい、バツが悪そうに恐る恐る視線を戻す。宮内はイタズラっぽい笑みを浮かべ、ペットボトルの紅茶を一口飲んだ。
* * *
春日ヶ丘サンシャインパークは、小高い山の中腹にある、千客万来でもなければ閑古鳥も鳴いていない、中途半端でありきたりな遊園地だった。
時刻はお昼前、日は南中高度に達しつつある。
土曜という事もあり、園内には家族連れやカップルなどでそこそこ賑わっていた。遊園地なんて子供の頃以来だった藤巻は、音楽と歓声で賑わうその非日常的な空間に、少しばかり気圧される。頭上に渡されたレールの上をジェットコースターが駆け抜けていくたび、金属音と風切音、そして若い女性の甲高い悲鳴で鼓膜が軋んだ。
「遊園地、好きなんですか?」
隣に立つ宮内に尋ねる。
「ううん、別に」
そう答えた宮内は人混みの間を縫って園の奥へさっさと歩いていく。じゃあ、なんでわざわざこんな遠くてマイナーな遊園地に来たんだ? 宮内の言葉に釈然としないものを感じながら、藤巻は慌てて彼女の後を追う。
園の一番奥まったところは、なだらかな丘に沿って整備された草原になっていた。開けた視界の先には、緑に色づき始めた隣の山肌が広がる。何人かの親子連れがレジャーシートを広げ、持参したお弁当を食べていた。
子供の笑い声、母親の優しい声、父親の力強い声。様々な声が響き合っている。
宮内はショルダーバッグから小さなレジャーシートを広げると、草の上に敷いて座った。
春の柔らかな日差しと、腐葉土の匂いを含んだ暖かな風。宮内は自然がもたらす恩恵を全身に受け、気持ちよさそうに伸びをした。
「あの、乗り物で遊ばないんですか?」
「遊ばない」
「あ、お昼にしますか? 俺、あっちの売店で何か買って来ますよ?」
「大丈夫、いらない」
藤巻は困惑した。
遊園地までやってきて、ただ草原に座り込んで、遠くの山を眺めるだけ。宮内は何がしたいのか、理解に苦しむ。
「あ、この山を下ったところに、美味しいラーメン屋があるんだよ。藤巻くんは、そこに行ってきたら?」
「ああ、宮内さんは?」
「私はいいや。ここで、こうしていたい」
「え、ここで?」
「うん」
藤巻は自分の至らなさで彼女の機嫌を損ねたのかとも勘繰ったが、どうやらそんな事はないらしい。陽の光を受けた彼女の表情は、風に揺れる一輪の花のように、柔らかな笑みを咲かせている。
ショルダーバッグからチョコレートを一粒取り出し、口に含んだ。
「チケットあれば当日は好きに出入りできるらしいから、夕方ぐらいに迎えに来てくれればいいよ」
「はあ」
宮内の意図がわからず、藤巻は口籠った。
遠くから子供のはしゃぐ声が、風に乗って流れてくる。
「……ごめんね」
その沈黙を不快感の表れと捉えたのか、宮内はお弁当を囲む家族や、タンポポの周りを飛ぶミツバチや、青空を優雅に流れる薄い雲を眺めながら、風の音のように呟いた。
「いえ」
宮内の眺望する景色を、藤巻も見渡す。
絵に描いたような幸せな日常が目の前に広がっていた。
宮内は何も言わず、それを見つめ続けた。
* * *
そのラーメン屋は魚介系の出汁がベースの塩ラーメンが売りだった。あっさりしたスープを想定していたが、思いのほか濃厚で食べ応えがあった。バラ肉のチャーシューは舌の上でとろけ、スープと共に喉へと流れ込んでくる。
おそらく、食後の煙草によく合うラーメンだ。そんな情緒もへったくれもない事を考えながら、太めの麺をすする。
店内を見渡すと、家族連れの他に若いカップルの姿もちらほら見られる。宮内と2人だったら、自分達は側からどんなふうに見えるのだろうか。想像を巡らせてから、そんな自分が馬鹿らしくて恥ずかしくなる。
宮内と自分は、きっと交わることのない人間だ。
彼女には揺るぎない意志と、想いがある。
それに対して、自分は透明だ。なんの意思も、想いもなく、このラーメンから立ち昇る湯気のように、何に達する事も出来ず消えていく存在だ。
でも、と藤巻は思う。
今日は少しだけ近づけたような気がした。
あの月明かりが差し込む部屋の中で、思い出の写真を燃やし過去を睨みつける彼女の目に、違った色の雫が落とされたような気がした。
助手席に座り、たわいもない話題で笑顔を見せる彼女は、どこにでもいる普通の女性だった。
雫一つで色を変えるほど、淡い色合いを帯びているような気がした。
ラーメンを食べ終える。
レジ横の台にに布製の小物がいくつか置かれていた。店主の妻が趣味で作ったフェルト製品を売り出しているらしい。
その中の一つ、月の模様があしらわれた栞を手に取り、なんの躊躇もなくレジに並べる。
それは宮内アヤカへのプレゼントのつもりだった。藤巻は自らの意思で誰かへの贈り物を選んだ自分に驚く。それは、透明になって久しい藤巻にとって、鼻の奥がむず痒くなるような懐かしい感覚だった。
車のシートに身を預け、窓を全開にしてから煙草に火をつける。口の中に残るラーメンの後味は、予想通りタバコとよく合った。
冬の間、色を失っていた木々は、春となり葉や花で色づき始めている。
幕田はお洒落さんではないので、女性の服装はそこそこお洒落さんである妻の服装を参考にしています。流石に8年も経つと、服の流行りも変わりますね。