誰にも見えず、見られる事がない
「そっか」
宮内アヤカは呟いた。短い言葉ながら満足そうな面持ちだ。
感情は形を持つ過程で、時に歪み、霞み、滲んでしまう。しかしこの小説には、宮内の放つ感情が鮮明に、色濃く焼き付いていると感じた。
それは、たとえ手元のカップから黒く濁った液体をぶちまけたとて、薄まる事はないだろう。
藤巻は緩くなったコーヒーを飲み干す。
「読めば、ちゃんと伝わるみたいだね。まぁ、読まれるか読まれないかは、別の話だけどさ」
宮内は頷く。
言葉尻に、どこか投げやりな感情を匂わせながら。
* * *
一週間後の休日の昼下がり、藤巻は小説の感想を彼女に伝えた。読みながら感じた痛み、苦しみ、そして彼女の中で蠢く赤黒い愛情。辿々しくも、より正確にそれらを伝えようと、藤巻は足元に落ちた幾つもの白い石を拾うように、ゆっくりと語る。
宮内アヤカは熱のこもった視線を藤巻に向け、言葉の続きを促す事もなく、静かに藤巻の言葉を待つ。
「やっぱり、私の思った通りだ。君は泥棒のくせに、凄く鋭い感性をしてるよ」
コーヒーの湯気が徐々に薄くなる。
全てを語り終えた時、藤巻はすっかり疲弊していた。
「あ、コーヒーのおかわり、いるよね?」
指先で頬を掻きながら照れた顔で笑うと、宮内は立ち上がった。
長袖のTシャツと白いタイトなズボンが彼女の身体のラインを浮かび上がらせている。こんなに貧弱な身体の奥底にあれだけの意思が渦巻いている不自然さを、藤巻は改めて実感した。
短い髪を頭の後ろで強引に結び、その柔らかそうな毛先は彼女の意思を鮮やかに描き出す絵筆のようにも見える。
キッチンへ向かう後姿を見つめながら、藤巻は彼女の心に自分自身を重ね合わせた。身の丈に合わない服を着たような違和感に惹起され、あの夜の不快感が首をもたげる。
彼女の中は臓物のような赤黒い愛情で満たされている。そこに、それ以外の異物が入り込む隙間はない。
コーヒーとクッキーを載せたお盆がテーブルに置かれた。
「これ、この前と同じクッキーだけど、いいかな? 賞味期限は問題ないよ」
宮内はそそくさとコーヒーを藤巻の前に並べると、クッキーを一枚手にとって齧り始めた。げっ歯類の小動物を思わせるような仕草だ。
そんな彼女の仕草に、小説という形で自身の内面を垣間見た人物に対する気恥ずかしさのようなものが同居しているように感じた
藤巻もコーヒーに口をつける。
宮内はクッキーをコーヒーで流し込んだ。
時計の音と、クッキーを咀嚼する音だけが聞こえる。
「あのさ」静寂の水面に小石を投げ込むように宮内は言った。「藤巻君は、なんで泥棒なんてはじめたわけ?」
それは至極当然の質問だった。むしろ今まで何故その話題に触れられなかったのか不思議なくらいだ。
そしてその質問は、藤巻の内面に漂う靄に触れた。
「何か生活に困っているとか?」そんな風には見えないけど、と宮内は神妙な面持ちで藤巻を眺めながら言う。「どちらかというと、生真面目というか、軟弱そうというか、犯罪行為を行うような容貌ではないよね」
「けっこうズバズバ言いますね」
宮内の歯に衣着せぬ発言に藤巻は苦笑いを浮かべる。
「ああ、ごめん」
恐らく照れ隠しも相まっての饒舌だったのだろう。宮内はばつが悪そうに頭をぺこりと下げた。
「泥棒に――いや、人の家に忍び込んどいて、こんなこと言うのもおかしな話なんですけど、大した目的はないんです。ちょっとしたストレス発散と、それと――」
それと、何なのだろう?
ストレス発散の他に何がある。その先に紡ごうとした言葉を、藤巻は見つけられずにいた。ただ、会話を続けようとする意識が、濁った嗜好の沼から一つの言葉を拾い上げる。
「自分は、透明だから」
レースのカーテンが閉められた窓から、やんわりと差し込む午後の日差しが、フローリングに半透明な紋様を産む。
「透明だから、か」
宮内はその答えが返ってくるのを予知していたかのように、一見すると意味不明な返答を自分の思考の中へと滞りなく落とし込んだようだった。
何度か頷き、小首を傾げ、コーヒーを一口飲む。そしてレースのカーテンを揺らすように、穏やかな声でいう。
「君は、自分が透明だと言う」
宮内はゆっくりと立ち上がった。
引かれた椅子の足が、フローリングと擦れて小さく軋む。手を伸ばし、所在なさげにテーブルに投げ出されていた藤巻の手に重ねた。
「本当は、捕まえて欲しかったんじゃないの?」
その手は、空になったコーヒーカップのように、惰性的な熱を帯びていた。
「違います」藤巻は首を振った。「俺は透明な泥棒なんです。だから誰にも見つからないし、誰にだって影響を与えない。捕まる事だって、ない」
自分に言い聞かせるように、藤巻は言う。
そう定義づけなければ、思い込む事で保ってきた自分が、崩れていきそうな気がしていた。
「でも今、私はあなたを捕まえてるよ」
藤巻の手を覆う宮内の手に力がこもる。
悪戯っぽい笑みを浮かべて宮内は、藤巻の手を掴むと、テーブルの上に置いた自分の左手首に重ねた。逃げ出そうとする藤巻の筋ばった手を、細い右手で囲い込む。
「わかる?」
「何がですか?」
「私の、脈」
「はい?」
「集中して」
藤巻の手に重ねていた、宮内の右手が外される。外気に触れた手の甲は涼しく、藤巻はかすかな名残惜しさを覚える。
人差し指と中指が、宮内の左手首に触れている。指先は消えてしまった温もりを求めるように、その感度を高める。
小さな鼓動を感じた。
「わかった?」
「は、はい」
「じゃあ、こっち向いて」
「うん」
「私の顔を見て」
顔を上げた藤巻の目に、宮内の目が飛び込んだ。
メガネ越しに見える、草食動物のような目。
それは、猛り狂う肉食獣と対峙し怯えるように、僅かに揺れている。しかし、それさえも押し殺そうとする強い意志を放ちながら、決して逸らされる事はなかった。
指先に感じる脈動が大きく、早くなっていく。
固い殻を破ろうとする雛鳥のように。
「あ」
藤巻の半開きの口から、何の意味も理由もない声が溢れる。それは初めて陽の光を浴びた雛鳥の、か弱くも強い鳴き声だ。
「私の鼓動、早くなってる?」
宮内が言い、藤巻は恐る恐る頷く。
「ほら君は、透明なんかじゃない」
そう言った宮内の声は、膨張していく藤巻の困惑の中で反響し、いつまでも消えなかった。
* * *
「次の土曜、空いてる?」
コーヒーカップをキッチンに下げてきた宮内は、テーブルの前で腕を組み、椅子に座って俯く藤巻を見下ろす。
「空いてますけど」
先ほど感じた宮内の鼓動が、まだ指先に残っている。
「じゃあ、付き合ってよ」
「え?」
「行きたいところがあるんだけど、車じゃないと行けなくて。私運転苦手だから、車出してよ」
藤巻が顔を上げると、宮内は口の端で笑いながら、大きく一度頷いた。
その要望に何の目的があるのか、藤巻にはわからなかった。ただ、その提案に魅力を感じている自分の感情もまた、わからない。
彼女の小説を預かり、その感想を言う。それで二人のやりとりは完結するはずだった。しかし、このまま彼女との繋がりを断ち切ってしまう未来を、藤巻は想像出来なくなっていた。
それほどまでに宮内の存在は、藤巻の内側を侵食し始めていた。
藤巻は頷く。
日は傾きかけている。
差し込む光の色は、透明から赤へと色付き始めている。
色に溢れた部屋の中。
その空気に包まれた宮内アヤカが、なぜか薄く透けているような気がした。